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大師になれなかった僧侶

 一般に、大師といえば弘法大師。言わずとしれた空海が、没後かなり経ってから与えられた称号である。しかし、個人的には慈覚大師円仁のほうを推している。円仁の業績が認められた結果、円仁没後に大師号を与えようということになり、実質的には最初に、名目的には円仁の師匠である最澄が伝教大師の称号を与えられたあとに慈覚大師の称号を与えられた。

 円仁の業績に関しては、もっと評価されていいと思われる。が、個人的には高校では日本史を選択しなかったので、円仁の名を知ったのはかなり後のことであるので、あまり強いことは言えない。

 承和の遣唐使の一員として唐に渡るものの、本来の目的地である天台山に行けないまま帰国することになった。このへんの詳細な事情は改めて述べる予定なので、ここでは省略する。大使の藤原常嗣と一緒に帰国の途に就くが、常嗣の了承を得て抜け参りを決行した。そこで在唐新羅人たちの助力を得て、本来の目的地ではないものの、天台山と同様に天台宗の聖地である五台山へ巡礼し、その後長安に滞在した。五台山と長安で、仏典や文献などの収集をして帰国を計画するが、その時期に会昌の廃仏と後に呼ばれる武宗による仏教弾圧が始まり、命からがら日本へと帰国した。この間、記録として残したのが、有名な「入唐求法巡礼行記」である。唐の時代の旅行記として、特に本人が見たものを本人が記録したものとして、マルコポーロの東方見聞録より歴史的価値が高いと言われている。日本に帰ってからは、当然のように日本天台宗のトップになり、日本の天台宗の密教化を大きく進めた。これだけの業績があれば、朝廷からそれまでになかった大師の称号を与えようという話が出てくるのは当然とも言える。

 ちなみに武宗の廃仏が始まって、寺院や仏像が破壊され、仏典が焼き尽くされ、僧侶たちはことごとく還俗させられたなか、大量の仏典や書籍を持ち帰ったあたりは、もちろん、現地に力を持っている協力者がいたからこそでもあるが、なかなかの冒険譚といえるものがあると思う。円仁自身も形の上だけとはいえ還俗し、俗人の身分で大量の仏教関連の品々を運んでいるところを官憲に見咎められたら、間違いなく命の保証はなかった。

 仏教弾圧が始まると、円仁の記録は筆が止まってしまう。身分を隠しての帰国の旅であるので、日記など書いている余裕はなかったであろう。このあたりも、その当時の円仁の状況に思いを馳せると、胸が締め付けられる思いがする。

 ここでようやく、この駄文の本題に入る。「大師になれなかった僧侶」のことである。

 円仁が帰国されられることが決まったとき、天台山行きの勅許を得た円載のことである。円仁の弟弟子にあたり、最澄の弟子としては最年少の人物である。円載は円仁と供に遣唐使船に乗っていた、円仁は請益僧で、円載は留学僧であった。

 ここで、一つ前の遣唐使の話をする。延暦の遣唐使船で唐に渡った二人の僧侶のことである。最澄は請益僧、空海が留学僧であった。請益僧は短期留学、留学僧は長期留学である。空海は本来であれば、20年間唐で修行する必要がある立場だった。もう学ぶことはないと、空海は2年余りで勝手に帰国してきた。

 この請益僧と留学僧の立場の差が、円仁と円載の運命を分けた。円載は長期滞在可能な留学僧なので、天台山行きの勅許をもらえた。円仁は大使と供に帰国しなければいけない請益僧なので、天台山行きは許されず、帰国を命じられた。

 円載は天台山で修行に励んでいたが、武宗の廃仏により滞在していた国清寺が破壊され、円載も還俗させられた。しかし、円載は帰国せずに唐に残ることを決断した。俗人となり天台山の北に位置する剡県で暮らした。

 その後、仏教復興の中で円載は再び僧侶になるが、その実力を認められて、長安に滞在することになった。この頃になると、皇帝に帰依されたり、文人たちと交流したりするなかで、滞在は長期に渡った。収集した仏典は数多く、悉曇、いわゆるサンスクリット語も深く学んだ。

 結果から言うと、円載は帰国できなかった。円載が帰国できていたら、円載も大師号を与えられただろう、と考えるのは筆者の贔屓目である。しかし、帰国できなかったことで、円載の業績を評価できるものはあまり残らなかった。

 そう。全く残らなかった、ではなく、あまり残らなかった、なのである。つまり、わずかながら残っているのである。その一つが東大寺に残されている、湛然の「五百問論」の円載による写本である。円載本人は結果的に日本に帰れないままであったのだが、弟子を日本に帰すときに、この写本を託して延暦寺に届けさせたのである。

 円載は弟子からの信頼も厚かった。唐で皇帝の帰依を受けるほどの実力があり、文人たちと交流できるほどの才能もあった。

 霊仙のように唐で三蔵法師の称号を与えられることはなかった。

 帰国できなかったので、日本で大師の称号を与えられることもなかった。

 しかし、円珍の弟子として後に唐に入り、現地で円載の弟子となった智聡は日本に帰国している。晩年の円載を知る唯一の日本人であるが、智聡は帰国後は比叡山に戻らず、各地で音韻や悉曇を説いて回ったと言われている。多くのことを学んで日本に持ち帰った弟子の智聡も、円載の業績の一つと言えるだろう。智聡に限らず、円載とともに唐に渡った二人の弟子も、一度日本に帰ってから再度唐に渡ったりしており、弟子たちは円載の片腕として実に良い働きをした。人材育成にも長けていたのが円載である。

 円載が帰国していたら、日本の仏教や日本の歴史はどう変わっていただろうか、と夢想している。一つ間違いないのは、円載が帰国していたら、筆者がこの駄文を書くことはなかったということである。

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