見出し画像

【ツバメroof物語⑥】(半分フィクション半分ノンフィクション)/石井‐珈琲係

 カフェ担当珈琲係(仮)というものの、珈琲の事はよくわからない。ただ唯一の救いは、珈琲が好きな事だ。よくカフェに行ったり、珈琲豆を購入したりしていた。
  
 ヨシ!いける気がしてきた!(笑)

 でも…逆光のカウンターで珈琲をにいれる湯けむりの中の寡黙なマスターを想像したが、到底無理な気がしてきた。珈琲薀蓄は言えないし、ちょび髭も生えてない。蝶ネクタイだって柄じゃない。
 夕子は思考がぐにゃりと変換されたと思っていたが、やっぱりやる前に冷静さを失わない自分も嫌いではない。そしてこの珈琲係に対する妄想の時間も大好物だったりして。
 
 マスター像は一旦おいといて、譲れないものはただひとつ。絶対に美味しい珈琲じゃないと嫌だ。

美味しい珈琲といえば…と考えた時、一度だけ会ったしずくサンを一番に思い出した。
 大阪のK町というのどかな場所で珈琲豆を手焙煎している古民家のカフェのオーナーさんだ。初めて行った時、珈琲のあまりの美味しさにビックリして目が丸くなったのをしっかり覚えてる。そしてメニュー表の中に、『珈琲手焙煎教室』と書いてあった事も。その時はまさか自分がカフェをするなんて想像もしていなかったけど、そんな教室があるんだと、頭の片隅にずっとあった。

 一度しか会った事ないけど…しかも、美味しかったです、としか言葉も交わしていない。教えてもらおうかな…あの味の珈琲を出せるのなら。でもしずくさんは凛としたイメージで、中途半端な気持ちでは失礼な気もした。いや…今の自分は中途半端なのかどうなのか…やる気だけはある。

 迷ってるのもバカらしく思えて勢いに任せて、えぇいっと電話をする。
『はい大丈夫ですよ』とあっさり教えてもらえる事になって、少し拍子抜けした。よく考えたら、メニューの片端にある気軽な焙煎教室のはずだ。弟子入りしてのれんわけをする大層なものではなかった。

 夕子は電話を切った後、あれこれ妄想せずに瞬間的に行動するのは楽だなぁと思った。

数日後、店の古民家の扉を自信なく、カラカラと開ける。
 そして、アイとその子さんも、美味しい珈琲を飲みたいからとついてきた。なんだか浮足立っている二人といると、緊張しているのも、バカらしいな、と夕子は思った。

 焙煎し立ての優しい特有の香ばしさが鼻の奥を突き抜けて脳まで届いた。そしてその香りに包まれた広い土間に『いらっしゃい』と、おしゃれな北欧風の三角巾をしたしずくさんが落ち着いた笑顔で出迎えてくれた。
 『こ、こんにちは。今日はよろしくお願いします!』千尋の気分で挨拶をする夕子。この香りの中で日々自分がいるなら、どんなに素敵だろうと夕子は思った。もしかすると、媚びない佇まいのしずくさんへの憧れか。そして、急に緊張で心臓がうるさい。おかげでうまく靴が揃えられなかった。
 そして初めてこのしずくさんの店に来た二人は、梁の太さや、建具などをキョロキョロと見回して、どのような素材でリノベーションしたのか築年数等興味津々といった風に聞き始めた。
 
 こういう時に、あぁそういえば二人とも建築士やった、と夕子は思い出す。そして珈琲よりも興味があるのは建築物の方なんだと気付かされた。やっぱり今日ちゃんと珈琲の話を聞くのは私だと深呼吸してから覚悟を決めた。
 そしてまさかこれが珈琲の深みにハマる、まるで大海原の難破船に乗るきっかけになるとは、この時は知る由もない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?