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共存共栄

うちの人

よそ様はどうなのかは知らないが、私は彼の事を「うちの人」と呼ぶのが好きだ。うちの人は、家の人でもあり、内の人とも表現できそうなところを気に入っている。

さて、そんな「うちの人」は、私より一回りも年下である。毎日、私が、だらだらと垂れ流す日常生活を見ている人にとってみれば、それはいつもの話、だけれど、これが例えば仕事先等で
『麦さんは?彼氏とかいるの?』
とプライベートについて聞かれた際に、おりますよ、一回り下です、とでも答えようものなら、同世代はどこで捕まえたのかと聞きたがり、年下の女の子達となると、年下は年下でも、まさかの自分の年齢よりも年下と付き合う年上(私)の女!と、どう答えても、必ず、根掘り葉掘りが始まってしまう。

そんな「うちの人」が購入した新築戸建てに、今年の四月、入居した。当初は連名で購入する予定が、三月が私の誕生月だった為、子供を持てない二人の間に……と子供がわりの犬付きで、と、プレゼントしてくれたのだった。話さなければ話さないでも良いのだが、仕事となるとどうしても、どこから通っているのか、は、話題となる。だから、なんの気なしに、その通りに答える。そうすると、23区内で戸建てを購入する年下の旦那とは!と、とんでもなくモテないような人なのか、もしくはベンチャー系のCEOなのか、それとも一日中FXチャートを眺めてる系の男なのか、なんなのだ、どんな男なのだ、が始まる。人の固定観念と偏見というのは面白い物だなぁ、と、眺めている。

多くは、きっと相手はとんでもなくモテないに違いない、だから年寄りを選ぶしかもう道がなかったのでは……というような、私からしても、ちょっとそれはどういう意味なんですかwwという感想を頂く事となる。二極化してしまった場合、人は信じたい方を信じるが、こうであってくれ!には、いつも人の悪意しか感じないw

そんな、いつでも話題になってしまう「うちの人」は驚く程に努力家でストイックな人である。大学を出てからずっと同じ会社で働いているので今ではそれなりの地位もあり、日々の粘り強さを見せている。毎朝六時には起床し自分で弁当を作っていく日もあれば、雨でも風でも遅刻せず、夕方の五時台には必ず仕事をきちんと終わらせて、寄り道もせずにまっすぐ帰ってくる。よくもまぁそんな、ロボットのような動きが出来るのだな、と感心してしまう。

元々、国体出身のアスリートでもあるので、鍛える事に関しては手抜きをせず、一度家に戻ってから、着替えてその足でジムに行く。私のように、気分じゃないから会社休みます、なんていう事もなければ、ちょっとくらい多めに食べてたって問題ないわ!等というような、緩い生き方をしない人だ。体たらくな私とは正反対の生き物である。

雨が降ろうが、槍が降ろうが、残業がどれだけ発生しようが、出張があろうが、仕事の後のジムだけは絶対に欠かさない、そんなうちの人には夢がある。目的があるから、出来るんだろうな、とも思う。

誰もが一度は


前述の通り、うちの人は元々、体を使う事に長けているので、それらに携わる事を生業としたかった人だ。それが、どういうわけか"とりあえず"で腰かけた会社に根を下ろす事となってしまった。責任が出てきてしまうと一線を退きづらくなってしまう。仕事は始める時よりも辞める時の方が頭を抱える。とはいえ、戸建てなんか買ってしまったものだから、収入は安定している方が精神的にも楽であり、いつかはしたい事をしたい、と言いながら、怠けもせずに今の会社に通っている。

五月から夏にある※1フィジーク の大会に向けての減量が始まったのだけれど、会社での仕事もある、終わってからジムもある、更にその上で会社での仕事の為に必要な資格を取る必要があり、勉強もしなければならない。
(これは先日、終わりました。お疲れ様でした。)

それからもうひとつ、自分が体を動かす事を生業としていく上で必要となるトレーナーの資格も欲しいらしく、それに関しても、試験日が決まってしまっているので掛け持ちで並行して勉強している。

減量のひとつ取っても、なんとなく痩せればいいや等という緩さではなく、〇月までには確実に〇キロ、その為の※2 PFC 値は……といった感じ。誰もが一度は『今とは違う生き方』について考える事がある。うちの人は努力家で、時にその努力が行き過ぎている事もあり、当人もたまに折れそうになりながら、いつも諦めずに挑戦している。

※1 フィジークとは
フィジークとは、日々のトレーニングや食事などにより自身の体を作り、最も肉体を美しく見せることが出来るポージング、髪型、パンツなどにより、鍛えた体の美しさを競う競技。ボディビルが筋肉があればある程よい、に対し、定義としては「海が似合う体」となる。

※2 PFCとは
全摂取エネルギーを100としたときの、三大栄養素、たんぱく質(Protein)、脂質(Fat)、炭水化物(Carbohydrate)の構成比率を表す。 健康を維持するためにはエネルギー総量だけでなく、エネルギー源となる三大栄養素のバランスが大切である。 したがって、PFC比は栄養摂取状態を表す目安となる。

晴れ時々、落雷

そもそも、では、そんな人がなぜ、THE:エクストリーム緩い人!の称号も頂けそうな私と……と不思議に思う人の方が多いだろう(私自身もそう思う)。ううちの人は、私のその自由な考え方や雰囲気に憧れるらしく、「自分にないところがあるから」私の事を愛して下さっているらしい。でも。減量期間に入ると、それもなかなか難しいところがありまして…💦

ただでさえストイックな生活を送る、うちの人。基本はとても穏やかな性格の持ち主だけれど、基礎代謝がとても高いので、減量中の食事では体が追いつかず、知らぬ間に糖切れを起こすからそうなるのか、脳内が度々おかしなベクトルへ向いてしまう事が増える。

一回りも下であると、うちの人より確実に12年は長く生きている私のこと、それなりに人の生き方なども見てきているので、物事は努力をすれば必ず報われる、とも限らず、思わず、あまりにやり過ぎてしまう無謀な動きを見ていると、老婆心で時々、口を挟む事がある。それは、健康を壊しては元も子もない、や、あまりに厳しいやり方をしていると、うちの人がどうにかなってしまうのではないだろうか、と心配してのこと。これが反対に若者から見ると、年寄特有の(保守的)と映る部分なのかもしれない。

これは保守的ではなく、生きてきた過程で、努力は必ず報われる、は、努力してきた者を労う為の言葉であり、その全てが事実かと言われるとそうではない、と知っている部分でもある。その違い。

今を必死に、手探りで、戦う人間には到底解りかねる事だとは承知で、助言をすると、普段なら怒るような場面でもない場所で、私ののんびりさがイライラを促してしまうらしい。そして、要らぬ喧嘩が勃発する。

尤もだ。そこは私がきっと、口を挟まなければよい。ここを気をつけなさいね、あれに気を配りなさいね、そんな事を言ったって、自分が感じない限りは、助言こそ無駄なのだ。いつかは役に立つ助言だったとしても、今は必要ない。させてみて、失敗したらまたそこからね、vs 何かあってからでは取返しがつかないではないか!という本当の老婆心。年寄ってうざいねw
自分でも最近、思うわ。わはは!

劇的なスパイス


最近の子、としてまとめてしまうと申し訳ないのだが、私はベビーブーム最後の子である。そうなると、もう、一つ下からは全く文化が変わってしまう、の手ごたえも、側面で実感している。

最近の子は、正しさだけを貫きやすい。努力をしていれば必ず結果が出る、報われる、それはそうだろう。人よりも努力しているのだから。でも、その『結果』を非常に急ぐ部分がある。こうしたのだからこうなるはずだ!は、いつでも有効というわけにはいかない。世の流れが、間違いは出来る限り排除で!と正してきた結果、残したものは、生き急ぐ事だけのような気もする。

IT企業で働いていた頃、例えばPC100台に命令形のソースをインプットして、その通り動くように設定するものの、なぜか、数台は思うように動いてくれない物があったりした。ソースは間違ってはいない。PCが壊れているわけでもない。とても不可解な現象が起きる。このPC意思でも持ってるの?気分じゃないのか……じゃあもう今はいいよ、で、一旦置いておき、充分に時間がたったところで再実行すると何事もなかったように動くことがある。

要は、努力も必要だけれど、全てが偶然なのだ。偶然の条件が重なった時、後になって人は「必然」だと片づける。それはそうだろう。全てのものが何かしらの努力をしている。努力と、性質が流れたい方向性を、誰かが観測した時、初めてそれを結果としての"偶然"と呼び、それは必然であった、と、努力も選択もしなかった全く関係のない人間が結論づけるだけだ。この中でその物事に大きく変化をもたらせている劇的なスパイス、それは「時間」。

努力でも、偶然が重なるための運でもない。時間がそれを可能にするのだ。だから、私は、うちの人に対して、

昨日これだけ頑張ったのに今日体重が動いていない、これではいけないと焦り倒す、それには期日があるものね。確かに努力は必要だよ?でも努力が足りないからこんな結果になったのだ、と、今を見て物事を判断しすぎではない?じゃあ努力していたはずの自分は?その時間は?どこに行ってしまうの?努力をしているか否かを尋ねられたら、あなたはいつでも充分に、誰よりも努力をしているのを私は見ている。なんなら、したい事やそうでありたいと考える事、それはいつだって頭の隅にある限り、広義の意味で捉えれば、忘れない事自体、それだって努力だと言える。特定の事で華を咲かせたいと願うのであれば、忘れないでいる事は今の選択を変える、それは努力の内だわ。その期日に間に合わなくても、結果としてはダメだったとしても、それはその時の話。経験として残る。必要なのは、結果そのものではなくて、経験した事、ではないのかしら?

と言う。誰の一分一秒も、一秒経てば過去だ。現時点での結果でのみ、選択を迫られ選んだ手段が、一秒後の結果となる。その繰り返しだ。思うような結果が出なかった、は、落ち込んでもいいし、次回に向けた反省点や動機にしてもいいだろう。但し、それで不安になって、躍起になって考えるように物事が進んでいない、とイライラとして他人に当たるのは違う。良い結果が出ずに諦める、それはもう、それその物に興味がなくなっただけの事。それならそれで、死にはしない。

そうした、本当に取るに足らないような事で、うちの人が渇望する結果に対する情熱を上手に消化できない為、度々、大喧嘩になる。うちの人は、そういう時、だいたいお腹がすきすぎているので、よからぬ方向にばかり話が進んでしまう。

なんもわかってないね!だったり、わかったようにえらそうに!だったり、なんなら君もやってみりゃいいよ!どんだけ難しいか!となる。

違う。違うの。わかってね。偉そうに言っているつもりは微塵もない。でもそう響いてしまっているのであればごめんなさい。まず第一に、今のあなたはあなたらしくない。何かを手に入れても、何かを失ってしまったら、それは正しかった、成功したとは言えないのよ。この状態で、どうでもよい言い合いで、私が、あらそう、じゃあもう思うようにすればいいじゃない、そう言って出て行ってしまったとしたら?

結果が出たあとに、あの時はごめんなさい、自分はどうかしてたと言っても、一度壊れたものは元には戻らない。それは、私に対してだけじゃない、普段のあなたとは呼べないような状態を私が確認できるという事は、気づかぬ内に私以外の誰かにも、そう接してしまっているかもしれない。いつでも、あなたを助けてくれるのは、あなた以外の他の、生きてる誰かだわ。周りを、縁を、大切にしろと言うのはその事よ。自分自身を大切にできていない時、同じように人を傷つける事がある。よそ様なら、もっと傷つけてるかもしれない。それがあなたの人生における評価になる。何故なら人生その物が一分一秒、毎時、結果の連続だから。

成功、というのは、第三者からの評価だわ。それは目標よ。対して、実績は、あなた自身。目的の部分。せっかくの素晴らしさを、なかった事にして欲しくないのよ。あなたは努力をしているし、いつでもカッコいい。私が、かっこ悪い男と付き合うわけないし、かっこよくて金だけ持っててそれなりに優しい男ならごまんと知ってるわ。でもね、私は、あなたに預けたの。私の事をあなたに預けた。それには、それなりに、意味があって、あなたはやり遂げるだろう、そう思ってるから預けたの。自分を、忘れないで。

ごく稀に、雷が落ちて、雨が降る。私は、共存共栄を望む。
こんなしょーーーーーもない事でいちいち言い合いをしていたら身が持たないし、それは共存ではなく「今日は損」で共栄ではなく「今日の見栄」だ。
わかったか、若造がゴルァ!と、言いたくなる事もたまにある。
それでも私にすると、うちの人は可愛いのだ。とても。


箱の中身


どういう意味で私がその言葉を投げていたかを理解し、理解は出来ても、なかなか本心を打ち明ける事が難しい中、ここが歳の差のよいところで、うちの人は、話せば理解してくれる相手だろう、と私を信頼してくれているので、自分の中でこれではよくない!と思っていても、緩め方やブレーキのかけ方がわからない時があり、それら全部が面白くないと思える時、あなた(私)は優しいから、こいつはバカだな、と、バカが言う事として放っておかない、そうすると余計に、自分はまだまだだな、となって、俺なんてたいした事ないって方向にどんどん向かってしまう。上手な出し方がわからないんだよ、そういう時にはどうしたらいい?と、うちの人。

私はうちの人に二重スリットの話をした。
これには解釈が二つある。シュレーディンガーの猫が有名である。
簡単にいうと、箱に猫を入れて、何らかの条件で毒ガスが出る事もあれば、出ない事もある。猫が生きているか、死んでいるか、は、箱をあけてみないとわからない。という物であり、理論上確率は50%の半々。生きているか、死んでいるか。この二つ。

この運命は、結果的に箱をあけた人が
「生きてます!猫ちゃん、ガスがでなくてよかったね!」か
「……可哀想に。死んでます……なんてむごい……」と、初めて、観測されて生きているか死んでいるかを確認される。

良し悪しはさておき、それは、物事の結果に過ぎない。
結果的にそうなのだ。
確認した人が確認した時間を持って、その時間を結果とする。

四角い箱の中では、運命が二つに分かれ、箱の中身は誰も見通せないから

生きてる猫ちゃんと、死んでる猫ちゃんは、箱の中では二匹いて、目視される時には光の加減やら何やらで一匹しかいない、そもそも一匹は一匹で、変えようがないし……とするのが、コペンハーゲン解釈

対し、上記そのまんま、本当に猫ちゃんは二匹いて、一匹しか自分の目には見えてないけど、生きてるか死んでる、どっちかの猫ちゃんはもうひとつの世界で繰り広げられていて、違う結果をそれぞれ、その場所の観測者にみせつけているだろうとするのが、多世界解釈、と呼ばれる物。

どっちが好みか、によるだろうし、でも、人間社会はどちらかと言うと、コペンハーゲン解釈に重きを置く。見えない世界の事を思い巡らせてみても、答えなんて永遠に出ないからだ。

だとすると、コペンハーゲン解釈で流れていく時間の中で、生きてるや死んでるの結果は、観測された時間限定のものであるし、その猫ちゃんを、生きてて良かったね、と野に離してみたら帰る道中に車にはねられて死んでしまうかもしれない。結果は、観測された時間で、変わる。それだけの事だ。

それから、観測する人間がいるからこそ、初めて、その猫は生きているか、死んでいるのであって、成功したか否か、なんて、その日のその時、その時間だけのもので、観測者よりも本人が、これは成功した、失敗した、と思うか思わないかの方が重要であって、多くの人は、その箱の中で起きている事なんか、想像しない。どのような事が現場で起きていて今があるのか、そんな事は考えてもやり直せるものではないし、仕方がない事だから、要らぬ感情として排除される。

結果よりも過程が大切、という人がいれば、結果のみ、という人もいるという事。時間はいつでも、手にある限り、命ある限り、その時の努力をいつか、連れてくる。大切なのは、箱の中で起きている事である。生きているか死んでいるかを誰かに認められる事ではなく、確かに生きている猫がその中には存在としてある、という事。星の王子様曰く、大切な事は目に見えないように、世の中は出来ている。

年の功からいうと、その時に下せる最良の判断と選択、それから、いつまでも目的を忘れない事じゃない?例えば、もし、これは自分の目的からずれてしまう流れだと思った時、なぜそうなったのか、はよく考えるべきだし、自分が目的としている事はこうだから、こうして欲しいああして欲しいの協力やお願いは、私にリクエスト出来るはず。

何にしても、自分ひとりで抱えこまないでいて欲しいし、今自分の立っている位置を良い事も悪い事も私に伝えて?今は存在が邪魔だと思ってしまう、変な助言は寄越さないで欲しい、何故なら負けてしまいそうになるから、そんな事でもいいよ。難しい事じゃない。そうしたら、私も同じように、同じ位置で考える事が出来る。あなたに今、必要なものはこれだなって。目的を達成させたいのなら、自分で掲げた目標に左右されてはいけないわ。

そうしたら、うちの人は言った。

ごめんなさい。あなたを傷つけてばかりいる。これからも仲良くしていたいし、ずっと一緒に歩いて行きたい、そう考えている。それが、一番に叶えたい目的だよ。

人はそんなに強くない。手探りで生きるからこそ、時に強いフリをせねばならず、結果がみえていない内から不安になって、ああでもないこうでもない、といじくりまわしてしまう。不安や恐れ、それらはあっても当然の感情。その中で、あなたがあなたらしくいる事、や、頑張る·戦うからこそ、邪な考えも沸いてしまう、この中で最も重要なのは「頑張っている」という過程がその結果を生んだだけであり、その時点で観測された結果は、次の瞬間、いつもの自分らしい自分によって塗り替えられ、新しい結果をもたらす。

私はうちの人に成功して欲しい。
どの人に対してもそうだ。あの人の望む事、この人が叶えたい事。
全てがうまくいくように、願っている。いつか、全ての偶然を、時が束ねる。誰か、ではなく、その時、自分が観測できるのは、自分らしさがあってこそ。その時を、どの人にも、見逃さないでほしいな、と思う。
どうぞ、その都度、よい結果と選択を。
負けそうになったら、これは目標であり、目的ではない、目的の結果を眺めるのはもっと先の話だ、と思い出して。

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