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三十話「犬食い」

 Fさんが小学生の頃というので、そうとう昔の話になる。


 当時、Fさんの住まいの近くには雑居ビルがあった。

 いま思えばどんな企業が入っていたかなどは思い出せないが、とにかくそこにあった。


 さんさんと輝く太陽に照らされて、ガラス窓や看板を光らせるビル群の間々には、その煌びやかな外見とは対照的に、陽が差し込まず、暗く薄汚れた路地があった。

 よくみると煤けた外壁、誰かが放りこんだゴミ、虫やネズミの動く影・・・。そんなものばかりが目に入るため、Fさんをはじめとした住人たちは、その路地を日頃からみないようにしていた。


 ある頃から、その路地で人影をみかけるという噂が立った。ただ、その人物の詳しい人相や特徴、出くわす時間帯、そして年齢や性別すらも分からなかった。『変な人が出るから近づくな』と、大人たちが口々にいうぐらいであった。


 しかし、日頃から気にかけていない場所での話だったので、そのときのFさんは、大人たちの注意を話半分程度にしか聞いていなかった。



「よく事故物件がうんぬん・・・なんて話があるけど、意外と出くわさないもんよ。仕事柄そういうところによく行くけど、『そういえばここはそんな場所だったな』と意識していたら全く出てこない」



 いま思えば、あのときの自分は油断していたのだろう。

 公園で友達とくたくたになるまで遊んだ帰り道。「今日の晩飯はなんなのか」などと、そのぼやけた頭で考えながら歩いていると、ふと、あのビルの隙間が目に入った。


 夕日で申し訳程度に照らされたその隙間に、自分の影がすーっと伸びていく。その自分の影が腕をあげれば届きそうな位置にソレはいた。


 煤けた外壁にも劣らない、汚らしい衣の塊。

 それが人の後姿だと気づくのには少し間があった。

 肩が上下し、脂で固まった黄ばみのある白髪が小刻みに震えている。

 その人物の姿を理解したとき、今度はソレがなにをしているのか気になった。

 気づけば、肩と頭が揺れるたびに「かつかつ、かつ、・・・」という音が微かに聞こえてくる。


 その途端、黄ばんだ白髪がクルっと動いた。


 男なのか女なのかも分からない、ソレの黒ずんだ横顔があらわになる。

 黄色く濁り、血走った目でFさんを一目みやる。


 その間、動けないでいたFさんは、もごもごと動く、ソレの口元に目がいった。

(なにか食べている)

 そう思ったとき、ソレは彼の目の前に手を伸ばした。

 その汚い手の中にあったのは、蓋の開かれたドッグフードの缶詰だった。


 Fさんがあっけにとられていると、ソレは興味を失ったのか、背を向きなおして、また肩と頭を揺らし始めた。


(よくわからん奴もおるもんだな・・・)と、心のなかで呟いたFさんは、踵をかえし、そのまま帰宅したという。



 話はそれから数十年後になる。


 建築業で働くFさんは、偶然にも地元の建築物を解体することになった。

 あとは一階の部分をかたす段階まで進んだときのこと。


 休憩から戻ると、現場が騒がしい。土地の一角、皆がそこを囲むように立ち尽くしている。

「うわあ、面倒なことになった・・・」

「だっるいなあ・・・」

「ここもかよ、おい・・・」

 同僚らが口々にそんなことを口にするなか、Fさんは、その人波をかき分けていった。






 そこには人の骨があった。

 掘り起こした土のなか、長方形の穴に全身の骨が横たわる形で埋まっている。


 それをみた瞬間、Fさんは何故かいままで誰にも話さなかった、あの出来事を思い出した。

 

 そういえば、ここはちょうどあのビル群があった場所ではないか。

 一心不乱にドッグフードの缶詰めを喰らう汚ならしいルンペン。

 この骨はもしかすると・・・。


 その後の顛末は、〝上の人〟の指示で建設は続行され、いまではあの当時とは違うビル群がそこにある。骨がどこに行ったのかは誰も知らないそうだ。


 しかし・・・


「変なのはそこじゃないんだよ」


「俺は医者じゃないから、詳しいことは知らないけど・・・」


 穴のなかに横たわる骨。

 頭や足の形から、素人ながら人のものだとは分かる。

 ただ、それらは犬の姿のように綺麗に並べられていた。


 そして、首元には首輪のようなものがみえた。


「だからなんだろうけど、あのルンペンを思い出したわけよ。でも・・・」


 骨の並べ方と首輪について言及した人物は、誰もいなかったという。