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R&Bとソウル・ミュージック⑤シカゴ・ソウルの芽生えと音楽著作権

グレート・マイグレーションによって、ミシシッピデルタに辿り着いたブルースミュージシャンたちによって”シカゴはブルースの中心地”となっていきました。
1940年代後半になると、シカゴのブルースはアンプを使うスタイルへと進化していき、マディ・ウォーターズが真っ先にこの変化を受け入れます。

Chess Records

ポーランド系のチェス兄弟は、マディ・ウォーターズが所属したアリストクラット・レコードの共同所有者となり、1949年に全株式を買収して、1950年に社名をChess Recordsに変更
(本社所在地はサウス・ミシガン・アベニュー2120番地)

Chess Recordsの大躍進によって、ミシガン・アベニューの目抜き通り(通称「レコード・ロウ」)がシカゴのレコード産業中心地となっていきました。


Vee-Jay Records(ヴィージェイ・レコード)

1948年
ヴィヴィアン・カーター(Vivian Carter)はインディアナ州のラジオ局WGESのDJコンテストに合格して、いくつかの局でDJとして働きます。
1952年
ジミー・ブラッケン(Jimmy Bracken)は、Vivian's Record Shopを開店
1953年
夫婦二人で働て貯めたお金で、黒人オーナー最初の大きなインディペンデント・レーベルをスタート

Vivian Carter & Jimmy Bracken

カルビン・カーター(Calvin Carter):ヴィヴィアンの弟
主任A&Rマン兼プロデューサー。レコーディング・セッション担当。

エワート・アブナー(Ewart Abner)
1955年に最初はマネージャーとして入社。
その後、副社長そして最終的には社長

Ewart Abner

<レーベル初のアーティスト>

スパニエルズ(Spaniels)

資金不足で500ドルを借金して録音した「Baby,It's You」
R&Bチャート10位にランクイン


ジミー・リード(Jimmy Reed)


1954年

レーベルの2大アーティストのヒットによって、経営基盤が強固となっていってサウス・ミシガン・アベニュー2129番地に移転

<レーベル初のR&Bチャート1位>

Jay McShann & Priscilla Bowman - Hands Off



当時は、レコード業界も銀行も信用調査機関も全て「白人」が牛耳っていたので、ヴィージェイもビジネス遂行にあたって「人種差別との闘い」は避けて通れない厳しい壁だらけでした。
しかし、ヴィージェイの存在は、多くの黒人コミュニティに勇気を与えたことも事実です。


Doo-wop


1954年春、The Spanielsの「Goodnight Sweetheart Goodnight」がビルボードR&Bチャート最高5位のヒット


1956年、The Dells「Oh What A Night」がビルボードR&Bチャート最高4位のヒット


The El Dorados - At My Front Door



Vee-Jayの成功要因


【DJだったヴィヴィアンの現場感覚】
黒人大衆に支持される最新の音楽に敏感に反応できた。

【優秀な人材】
タレント・スカウト>:カルビン・カーター
<敏腕マネジャー>:エワート・アブナー
<ハウス・バンド>:レッド・ハラウェイ、レフティ・ベイツ、クイン・B・ウィルソン、ポール・ガスマン等から奏でる都会的サウンド

【スタジオ使用契約】
米国最大級の独立系ユニバーサル・レコーディング・コーポレーションと定期的なスタジオ使用契約の締結



シカゴ・ソウルの芽生え

1958年
「レコード・ロウ」にある『キング』と『チェス』に断られた6人(メンバー5人とマネジャー1人)がVee-Jayに入ってきました。

彼らが「The Impressions」だったのです。


カルビン・カーターは「いいね!」と言い、即契約の話となったのです。

Vee-Jayは、ジェリー・バトラーをソロ・アーティストとしてのリリースを考えました。これは、一人をスターに仕立てる方がグループよりも容易であるという商業的理由からです。

ジェリー・バトラーも他メンバーもこの案に反対して、1年半にわたってレコーディングやツァーを行ったのですが、ジェリー・バトラーは「Come Back My Love」のヒットを最後に独立。
そして、グループはVee-Jayを離れることになります。


カーティス・メイフィールドの先見性


1960年:カーティスはマネジャーのエディー・トーマスとともに、自らの音楽出版社「カートム・パブリッシング」を立ち上げます。

黒人アーティストが自らの音楽出版社を立ち上げる例として、サム・クックのSARAレコードが有名です。サム・クックは既に大スターでしたが、カーティスは10代、エディーは20代の若者で音楽出版社を立ち上げるという先見性には恐れ入ります。



(ご参考)アメリカ音楽業界の著作権に関するウンチク

白人歌手によるR&Bなどのカバーは、より強固な流通チャネルとメジャーレーベルの宣伝力によって、オリジナルの黒人アーティストよりも大ヒットするケースが珍しくありませんでした。

「横取りマーケティング」が横行した一因に、当時の著作権法の音楽についての規定が曖昧だったことがあげられます。
この動きに対して、黒人アーティストたちは、権利を守るために法的手段を取り、また音楽のライブ演奏においても、オリジナルの楽曲を演奏することで、白人アーティストとの競争に立ち向かいました。
 
これらの反撃は、黒人アーティストたちの自立を促し、黒人音楽の発展につながったと考えられます。


1950年代にはラジオ・テレビが普及し、音楽産業で使用される音楽の著作権保護に問題が生じていました。音楽出版社は、使用料の徴収を求めるのですが、ラジオ局・テレビ局、レコード会社は、自社のプロモーションに使用する音楽は著作権の範囲外であると主張し、支払いを拒否することが多かったとされています。

そして、ASCAPが持っていた独占的な著作権管理システムに対する批判(手数料が高く、放送局側からの不満)が大きく関わっていました。


<アメリカの2大音楽著作権管理団体>

【ASCAP (American Society of Composers, Authors, and Publishers)】
1914年に設立された、米国最古の音楽著作権管理団体。作曲家、作詞家、音楽出版社の利益を代表して、音楽の著作権保護に取り組んでいます。個別ライセンス制度を採用しており、事業者が使用する楽曲ごとに許諾契約を締結する必要があります。

【BMI(Broadcast Music, Inc.)】
1939年に設立された、楽曲のパフォーマンス権と著作権の収益化に特化した業界団体として発展しました。音楽の使用に関するライセンスを提供し、そのライセンスに基づく使用料の徴収を行っています。 グループライセンス制度を採用しています。

 このため、ラジオ局側は、 ASCAP との契約更新をせずに、BMIと契約するようになっていきました。
当然、この動きに対して老舗のASCAPが反発します。

 この問題を解決するため、1950年代後半「BMI-ASCAP合意法」が成立。

「BMI-ASCAP合意法」
事業者がライセンスを取得した場合、BMIとASCAPがそれぞれ管理する楽曲の使用料を一括して支払うことができるようになり、別々にライセンスを取得する手間を省くことができ、BMIとASCAPも使用料の徴収がより効率的になり、 使用料の分配方法についても協力することになりました。

この合意法により、作曲家や作詞家の代理人である音楽著作権団体が直接報酬を得ることができるようになりました。


『ぺイオラ(Payola)』

レコード会社がDJに働きかけて特定のレコードを流してもらう見返りにDJにリベートを支払うことをさす言葉。

1950年代は『ペイオラ』を違法とする法律も存在しなかったので、合法的な慣例として業界内で慣例化していました。

1958年:ASCAPは『ペイオラ』を放送倫理の腐敗と激しく非難して『ペイオラ』を商業上の賄賂とする法律が制定されました。
 
1959年から1960年にかけて『ペイオラ』に関わったDJや音楽関係者の多くが業界から追放されました。
有名なのは、当時アメリカで最も有名なDJとなっていたアラン・フリード(Alan Freed)も業界から追放されました。
 
この『ぺイオラ』スキャンダルによってラジオからは
ロックンロールが消えポップス音楽が中心に流されていくこととなります。



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