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R&Bとソウル・ミュージック⑫GOLDWAXに関わるアナザーストーリー

メンフィスに”The Harmony Echoes”というゴスペル・カルテットがいました。このカルテットに所属した二人のシンガー

O.V.ライト(O.V. Wright)ジェームス・カー(James Carr)

彼らをスカウトしたのがルーズヴェルト・ジャミスン


ルーズヴェルト・ジャミスン(Roosevelt Jamison)

Roosevelt Jamison

1956年10月からメンフィス市立病院で用務員として勤務。医療技師の資格を取得して、テネシー大学付属の”インターステイト・バンク”の運営を行うようになった。さらにミュージシャンのスカウト活動も行った。

ルーズヴェルトは、ゴミ収集車の運転手をしていたO.V.ライト(サンセット・トラヴェラーズのリード・シンガー)と出会い、商業的な成功を夢見て『That's how Strong My Love Is』を作りました。

当時のルーズヴェルトには育ちざかりの子供がいましたが、教育は受けられそうもなかったし、公正な額のお金をもらうこともできずに【差別の問題】で悩んでいました。
そんな精神状態の頃に出会った一人の女性に喋った『How Strong My Love is』を歌詞にしたのです。

『That's how Strong My Love Is』


ルーズヴェルトはまずスタックの売り込みましたが、スタック社長のジム・スチュアートが「ゴスペル色が強すぎる」と不採用になります。

そこでルーズヴェルトは、GOLDWAXのクイントン・クランチに連絡して、説得してシングル・リリースが決定しました。(1964年)

サンセット・トラヴェラーズは、賭博界の顔役である”ドン・ロビー”が経営するヒューストンの「ピーコック・レコード」との契約グループです。

この契約はグループとしての契約なので、O.V.ライトのソロ・アーティストとしての活動は、この契約外と誰もが思い込んでいました。

『That's how Strong My Love Is - O.V. Wright』が掲載された9月の予備チャートを見た”ドン・ロビー”が激高します。

「O.V.ライトは我がピーコック・レーベルのサンセット・トラヴェラーズのシンガーの一人だ。それがソロでセキュラー・レコードを出すのは契約違反ではないか?」

ドン・ロビーの主張

ヒューストンにあるドン・ロビーのオフィスで、机の上に置かれた45口径のピストルを目の前にしながら「さあ、片をつけようぜ」と言われたクイントン・クランチは、一切O.V.ライトから手を引くことに合意しました。

結果として、O.V.ライトのGOLDWAXからの『That's how Strong My Love Is』は闇に葬られたのです。


しかし作品自体は評判の作品でしたので、大量のプレスがされていたのでしょう。チャートには上がらなかったにもかかわらず、それこそ闇のルートで南部に浸透していったそうです。


O.V.ライトは、Duke Records傘下のバック・ビート・レコードの所属となり19枚のシングルを発表。
バック・ビートは彼の才能を十分引き出せなかったので、Hi Recordsのウィリー・ミッチェルをプロデューサーに起用することで、ビジネス的にも成功して優れた多くの作品をリリースすることが出来たのです。

God Blessed Our Love~When A Man Loves A Woman~That's How Strong My Love Isのメドレー 必聴です


Otis Reddingのカヴァー・バージョン

オーティス・レディングが歌詞を変えて『That's how Strong My Love Is(B面)』をレコーディング。『Mr. Pitiful(A面)』とカップリングされてシングル・リリース

ロブ・ボウマン著「スタックス・レコード物語」には

ライトとオーティスはほんの数日違いでリリース、間もなくローリング・ストーンズがこれを取り上げる。三種のヴァージョンの衝撃が相まって、同曲はすぐさまソウル・クラシックのひとつへの昇華した。
ライトとオーティスがこの曲を録音したのは、秋から冬へと変わるころ。

ロブ・ボウマン著「スタックス・レコード物語」P92

と書かれていますが、これは間違いのようです。

『ドン・ロビー騒動』『ジム・スチュアートが興味を示さなかった』などを考慮すると、スタックスがGOLDWAXと同時期にレコーディングしたとは考えられません。

オーティスの『That's how Strong My Love Is』のレコーディングは
1964年12月28日だったようです。



『That's how Strong My Love Is』は、ローリング・ストーンズのオリジナル・アルバム『Out Of Our Heads』収録曲

このアルバムも、大西洋をまたいだツアー中の合間を縫って行われた。
レコーディングはほとんどがカリフォルニア州ロサンゼルスのRCAスタジオにて行われて(一部はイリノイ州シカゴのチェス・スタジオ)1964年11月2日~9月6日~1965年5月12日の間のようだ。

リリースは?
アメリカは1965年7月30日(ロンドン・レコードから)
イギリスは1965年9月24日(デッカ・レコードから)


『That's how Strong My Love Is』はサザン・ソウル/ディープ・ソウルの名曲で数多くのアーティストにカヴァーされます。


GOLDWAXのその後


この一件でGOLDWAXは、オヴェイションズ(The Ovations)とジェームス・カーに集中するようになっていきました。

1963年にリリースしたオヴェイションズのシングルは、ワシントンのDJアル・ベル(後のスタック社長)が番組で紹介したこともあってヒットしました。


『You Don't Want Me』

ジェームス・カーは、O.V.ライトと同時期にルーズヴェルトの作品
「You Don’t Want Me」でデビューします。


ジェームス・カーは、1964年10月~1969年12月までの5年間に14枚のシングルと2枚のアルバムを残します。

彼の卓越した歌唱を南部外にも広く知らしめたのが、第4弾シングル

『You've Got My Mind Messed Up(1966年2月)』


マッスル・ショールズのクリエーターの中心的な存在であったダン・ペンとチップス・モーマンの作品

『The Dark End of the Street(1966年12月)』


ジェームス・カー(James Carr)

James Carr

ルーズヴェルト・ジャミスンが発掘した希代のソウル・シンガー

彼は、読み書きを学ぶこともなく、黒人ゆえの様々な苦難だらけの南部の生活を過ごしてきた生真面目で不器用な田舎の青年です。
ショー・ビジネスという荒波を乗りこなす術など、全く持ち合わせていませんでした。

個人的な見解ですが、ジェームス・カーのアルバム『You've Got My Mind Messed Up』が最高のメンフィス・ソウル/ディープ・ソウル/アルバムです

このアルバムを聴かずして「ソウル・ミュージックを語れない」と思えるほどの名盤であり、ジェームス・カーは素晴らしいシンガーです。

2枚目のアルバム『A Man Needs A Woman』でも素晴らしい歌声を聴かせてくれます。


しかし、彼は間もなく精神のバランスを崩して、重度の双極性障害と症状緩和のために依存した薬物のせいで、坂道を転がり落ちるように自分自身を見失っていきました。

遅刻や寄行が目立つようになり、スタジオに来ても「ソファで眠りこけ」うつろな目でボンヤリしていることばかり。
それでも「いきなり歌い出し、圧巻のテイクを一発でものにする姿は唖然とするしかなかった」そうです。

クイントン・クランチも対応に苦慮し悩んだと思います。
ジェームス・カーの病気が、GOLDWAXの消滅の大きな要因になったことは間違いないでしょう。


スペンサー・ウィギンズ(Spencer Wiggins)

1965年4月にGOLDWAXの一部門であるバンドスタンドUSAレーベルから、アイザック・ヘイズが作曲した「Love's Crime」でデビュー。

1969年までにリリースされた7枚のシングルは、ヒットするには至りません。そしてアルバムは制作されませんでした。


1969年GOLDWAXは閉鎖します。



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