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お母さん、ありがとう〜女手一つで家族を守り抜いた38年間の軌跡〜

まえがき

今日は母の日です。皆さんご存知の通り、自分を産んでくれた母へ感謝する日ですね。当たり前のことですが僕にも母がいます。母は女手一つで、38年間家族を守るために身を粉にして働きつづけました。

今年の2月、母は70歳の誕生日を目前にして仕事を引退。母への感謝の気持ちを、何か形にできないかと考えてこのストーリーを書きました。

母の半生を振り返ると、父と死別してから幾多の困難や悲しみに見舞われながらも、僕たち兄弟を守るために強く生きる姿がありました。そんな母の生き様を通して、今子育てに奮闘しているすべてのママさんの励みになればと思っています。

とりわけ、母と似た境遇のシングルマザーの方にとっては、母の姿がご自身と重なるかもしれません。母は深夜までおよぶ内職や、パートで外へ働きに出た際に、必死にもがいていました。当時はパソコン一つさえあれば、完結する仕事なんてありませんでした。

母の半生は、「荒波」そのものです。右も左もわからない大海原のなかで、どんな困難にも立ち向かっていく、母の強さのストーリーといえます。幼い三人の子どもを育てながら、仕事と育児に、休む間もなく働き続けた母。

このストーリーは、ふとした瞬間に母が僕に話しかけてくれたこと、僕が見つづけてきた母の生き様を文章にまとめたものです。最後まで読んでいただければ、母の生き様を通して、「家族を守る強さ」を感じていただけると思います。

子育ての悩みや困難に直面したとき、今日のことを思い出して励みにしていただけたら幸いです。それでは、母の波瀾万丈のストーリーを共に振り返っていきましょう。

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2024年2月15日、この日を最後に、母は38年もの長きに渡る仕事人生を引退しました。

【登場人物】
母ーーー美智子
父ーーー康平
兄ーーー俊樹
姉ーーーるり子
僕ーーーたつき(筆者)

幼少期は恵まれた家庭環境で育つ

1954年(昭和29年)3月10日、母・美智子は生まれました。当時、母の住んでいる集落ではほとんどの世帯が農業で生計を立てていましたが、母の父である祖父は郵便局に勤めていました。

そのため周囲の人たちよりも収入は多く、比較的恵まれた環境で育ちます。給料日になると決まって祖父は、牛肉を買ってきてすき焼きを食べていたそうです。

高校を卒業後、同級生のほとんどは都会へ集団就職をしていきました。しかし、祖父は時代を先読みし、「これから先は、女性も学歴が必要になる」と進学を勧められ、短大に入学します。

短大卒業後は、民間企業に就職。会社の同僚たちと、色々なところへ旅行へ行ったり遊んだりしていました。母の遊び呆けている姿を見て、祖父から「お前はいつになったら結婚するんだ?」と口酸っぱく言われることも。「女性のクリスマスケーキは25歳まで」が当時の価値観だったそうです。

父・康平との出会い、3人の子宝に恵まれる

民間企業に勤めて3年が過ぎたある日、父・康平との縁談が持ち上がりました。当時は、地域に結婚の世話をする仲介人がいて、年頃の女性を見つけては縁談を持ちかけていました。

父と初顔合わせをしたときの印象は「元気だけが取り柄の大男」「30歳でまだ独身だなんて」でした。

1977年(昭和52年)半年間の交際を経て結婚。
父との新婚旅行は、イギリス統治下の香港へ。父は独身時代から旅をするのが好きで、海外旅行もお手のものでした。父のエスコートに母も安心していました。香港でツアーに申し込んだ際に、現地のガイドさんから思いもしない言葉を投げかけられました。

「お二人は....、兄妹ですか?」

「え??違いますよ!!」

母は反射的に応えたものの、心の中でふと「そっか。康平さんに似ているところがあるから、惹かれたのかな」と思っていたそうです。

結婚生活が始まると父から「仕事を辞めてくれ」といわれ、専業主婦になります。父は設備業(建築物に関する工事全般の仕事)を営んでいました。当時、共働き世帯は少なく、女性は家にいるというのが当たり前でした。

自営業とはいえ、父は一匹狼で仕事をしていたわけではありません。同業の親戚とのパイプがあり、途切れなく仕事が入ってきました。父の収入だけで不自由なく生活もできたそうです。

ある日、仕事から帰ってきた父がいつものようにお菓子棚を漁ってチョコレートを口いっぱいに頬張っていました。ひと通りお腹を満たすと、自信満々に一言。

「ハワイに連れてったる」

突拍子のない発言に母は驚きましたが、父との約束を楽しみにしていました。

1979年(昭和54年)3月、長男・俊樹が生まれました。翌1980年(昭和55年)10月には、長女・るり子。1984年(昭和59年)3月に、次男たつきが生まれて3人の子宝に恵まれました。仕事も家庭も、小さな幸せを築いていった二人。しかし、幸せは長く続かなかったのです。

穏やかな日常が崩れていく...

1986年(昭和61年)ジリジリと照りつける太陽の季節が過ぎた頃から、父の体に異変が起き始めます。

仕事から帰って来ると、父は毎回のように「えらい(しんどい)」と、こぼしてすぐに横になって休憩していました。親戚からは「運動会でがんばりすぎたんじゃないの?」といわれましたが、そのとき父の体に病魔が潜んでいたのです。

みるみるうちに衰弱していき、地域の病院では手がつけられないほど悪化します。そして京都の大きな病院へ転院することになりました。

「康平さんの付き添いをしなくちゃ。お願いなんとか回復して」

母が付き添いをしている間、兄と姉は同居の祖母(父方)が世話をし、当時2歳の僕は親戚の家に預けられました。父の病名は「B型肝炎」。肝臓は沈黙の臓器とも呼ばれ、病気が進行しても自覚症状が出にくいのです。気づいたときには、肝硬変から肝臓ガンへと深刻な状態になっていました。

当時はまだ医療が進歩していなかったため、父の肝臓ガンを治療する手立てがありません。大した治療もできませんでした。父は子ども達に会いたかったそうですが、弱りきった自分の姿を見せたくないという意思で面会を拒否。

「せめて子ども達の声だけでも聞かせてあげたい」

母は当時出たばかりの、テープレコーダーに子ども達の声を録音することを思いつきます。小学2年生の兄は、母に何か話すように促されたものの、恥ずかしがってしゃべれません。

兄は母から「かけ算の暗唱をしてごらん」といわれて、1の段から順に暗唱してみせます。姉は目の前に父がいるかのように、幼稚園での出来事を話しました。2歳の僕は、しゃべり出すのが遅かったため、片言の言葉しか出ません。なんとか振り絞って出た言葉が「おとうさん」。

身長180センチもある大男が、人目をはばからず泣いて子ども達の声に耳を澄ませました。結婚式でも涙を見せなかった父の姿を、母は昨日のことのように覚えています。

早すぎる別れ

母の介抱も虚しく、「その時」が来ました。
1986年(昭和61年)11月24日、父・康平は39歳というあまりにも短い生涯に幕を閉じました。葬儀は自宅で行われ、参列した誰もが父の死を信じられませんでした。

「元気だけが取り柄の大男」

母はお見合いのときからそう思い続けていました。しかし、目の前にいる夫は白い衣装を着て狭い棺にこぢんまりと入っているのです。

葬儀が終わり、お清めの塩をかけているときに、母はフラッと気を失いそうになりました。目の前で起きている出来事と頭の中で考えていることが大きくかけ離れているからです。

「明日になれば『ただいま』と仕事から帰ってきて、いつものようにお菓子棚から好物のチョコレートを取り出して口いっぱいに頬張り、子ども達の分まで食べようとするんじゃないか」本当にそんな気がしてならなかったそうです。

しかし、悲しんでばかりもいられません。現実には、母は32歳の専業主婦で社会人として働いた経験は短大を卒業した後のわずか3年間だけ。3人の子ども達もまだまだ手がかかります。

「この子達だけは何としても守らなきゃいけない。康平さんの生きた証なんだから」

たった一人での戦い、深夜の内職

父が亡くなってからの1ヶ月間は、生活の立て直しをするためにとにかく必死でした。父が仕事用に使っていたトラックもすぐに売り払いました。置いておくだけでも維持費がかかってしまいます。兄はスイミングスクールに通っていましたが、もはやそれどころではありません。

母は自宅の敷地内にある、父が仕事用に使っていた小さな事務所で内職を始めました。翌年の春からは、僕も保育園に預けられます。毎朝、兄・姉を小学校へ送り出したあとに、僕をママチャリの荷台に乗せて、となり町の保育園まで送り届けました。

そして子ども達がいない昼の数時間に追い込んで内職をします。14時を過ぎれば保育園のお迎えの時間です。母子家庭とはいえ、当時は保育園であっても遅い時間まで預けられるような体制ではなかったのです。

兄・姉も学校から帰ってくると、一旦は仕事の手を止めざるをえません。幼い子ども達がいながらのワンオペでの仕事は時間が限られています。

休む間もなく晩ごはんの支度をします。子ども達をお風呂に入れ、絵本の読み聞かせをして3人とも毎日21時には寝かしつけました。落ち着いて仕事が再開できるのは22時を過ぎてから。母は仕事の手が遅く、毎日のように深夜まで内職をしていました。

順調に作業が進んでいても、離れの母屋からわずかに僕の夜泣きが聞こえると、すぐに駆けつけました。寝かしつけるために一緒に布団に入ると、そのまま自分も寝てしまい朝が来てしまうことも何度もあったそうです。

お気に入りの曲

僕が小学校に入学する頃には、兄弟そろって行動するようになり少しずつ手がかからなくなりました。母も内職に慣れてきたこともあり、心にも少し余裕を持って仕事をします。母はいつも、お気に入りの曲を聴きながら仕事をしていました。

僕は学校から帰ってくると、真っ先に事務所の引き戸をガラガラと開けて「ただいま」と母に声をかけました。すると、カーペンターズやホイットニー・ヒューストンの曲が聞こえてきます。僕はそのまま事務所の中に入り母が作業している様子をじっと眺めていました。

歌は英語なので何をいってるかは理解できなかったものの、幼いながらも「お母さんはこの曲が好きなんだなぁ」と思っていました。歌を聴きながら調子に乗って、母の仕事道具に手を伸ばそうとすると「コラッ!」と叱られることも。

ピンチを救ったいなり寿司

内職をしながら、父の遺族年金を受け取り生計を立てていましたが、決して楽な生活ではありませんでした。今月は家計が苦しい。なんてことはしょっちゅう。そんなときは決まって、いなり寿司と天ぷらを作っていたそうです。母としては材料費が安かったからです。

だけど、子ども目線からすればいなり寿司はごちそうに映りました。なぜなら、運動会で食べられる特別なものだと思っていたからです。天ぷらもお腹いっぱいに食べられるから大好きでした。だから、いなり寿司と天ぷらが晩ごはんに出ると「やったー!今日はごちそうだ!!」と大喜び。子ども達の様子を見て、母は何度ホッとしたことでしょう。

しかし、母一人の力だけでは手に負えないトラブルが起こります。大きく運命が狂わされるとは、このとき家族の誰もが気づいていませんでした。

祖母の介護問題

1992年(平成4年)9月、僕が小学校3年生のときに事故が起こりました。父方の祖母が、散歩中にこけて足を骨折したのです。祖母は骨粗鬆症で車いす生活になり、介護が必要になりました。すぐさま、父方の親戚の長兄と次兄が集まり、話し合いが開かれました。

「おばあちゃんの貯金を切り崩して施設に預けよう」

割と早く話はまとまりました。祖母は元気だったころ、よく皆の前で「私はお金を持っている」と公言していたからです。

たしかに祖母が育ってきた家庭環境は裕福でした。当時、女性の進学が極めて珍しかった地域でありながら、女学校に通ってテニスを嗜んでいたほどのお嬢様。曽祖父から受け継いだ株式もたくさん保有しており、誰もが祖母の財産をあてにしていました。

しかし、フタを開けてみたら予想外の光景が....。祖母の財産は底を突いていました。ほとんどを慈善団体に寄付したそうです。計画は白紙に戻り、話し合いは修羅場と化します。

「康平の葬式のときに、おばあちゃんにもしものことがあったら俺が世話するって言ってたよな!?長男のクセに家を出たんだから、それぐらいやってくれよ!」

次兄が長兄に問い詰めます。

「あのときとは状況が違うんだよ。お前こそ家が近いんだから、おばあちゃんの世話ぐらいやれよ!?」

長兄も反論します。

話は平行線のまま進んでまとまりません。ついに「ここは本家の美智子さんが、おばあちゃんの世話をするべきなのでは?」という案も出るほどでした。

父方の親戚と絶縁。そして引っ越し

結局、母と長兄と次兄の3家族で1週間交代で祖母の介護をすることになりました。とはいえ、3人の子育てをしながら、祖母の介護は最初から破綻状態でした。親戚付き合いも急速に冷え込みます。

半年過ぎたところで母は苦渋の決断を下しました。父方の親戚と絶縁し、家を出て実家近くに住むことにしたのです。

母から引っ越しの話をされた日の出来事を、僕は昨日のように鮮明に覚えています。

「引っ越しすることになった。一からやり直そうじゃないか」

母が僕たち兄弟を集めて、重い口を開きました。

「なんで引っ越しせなあかんの?なんで、おばあちゃんと一緒に暮らせないの?なんで、おっちゃん達と仲良くできないの?転校するの?そんなのイヤだ!!」

僕は決壊したダムのように涙があふれ出ました。

兄と姉の確執

引っ越しが決まる少し前から兄と姉の確執が起きていました。理由は未だにわかりませんが、兄が姉のことを毛嫌いしたのです。まるで何か汚いものでも見るかのような冷たい態度。姉と会話することはおろか、咳き込むことすらも「耳障り」と兄は荒れ狂いました。

そんな状況下で、一緒に食卓を囲んで食べるご飯など美味しいわけがありません。母はどうやって二人の間に入ればいいのか分からなかったそうです。僕は家族そろってご飯を食べる時間が苦痛でしかありませんでした。

転校生の洗礼

僕たち兄弟は3人とも、からかいやイジメなど何かしらの辛い経験をしています。特に兄は中学3年生で転校をしてきたこともあり、完全に「よそ者」扱い。嫌がらせもひどいものでした。ある日、兄が持って帰ってきた給食のパンがふと目に入りました。赤いマジックで「アホ!バカ!!」と書かれているのです。

「兄に八つ当たりされるかもしれない」と、恐怖を覚えた僕は知らんぷりをしました。母は背中を向けて無言になっていましたが、シクシクと泣いているのが伝わってきました。当時の母の日記には「俊樹・るり子の不仲。学校でのイジメを受けるために、家を出たわけじゃない」と書き殴られていました。

家を建てたい

母は引っ越ししてから内職を辞めました。時給は良かったのですが、作業スペースが確保できないため辞めざるを得ません。このとき僕は、小学4年生になっていました。身の回りのことは一通りできるようになっていたこともあり、母は外へ働きにでる覚悟を決めました。

引っ越し先のアパートは、築30年6畳の部屋が2つあるだけ。母はこのときから、新しい家を建てることを思い描いていたのです。

10円コーヒーでホッと一息

パート勤めを始めた母は、休憩時間になると決まって自販機で10円のコーヒーを買って一息ついていました。母から「10円コーヒー」の話を聞いて、僕は母の誕生日に10円玉をプレゼントしました。

「お母さん、これでコーヒー飲んでね」

母の喜んでくれた顔は忘れられません。当時の母の日記には「たつきから誕生日に10円もらった」と書かれていました。

宝物の旧札を手放す

外へ働きに出ても家計の苦しさはそう簡単には変わりませんでした。今回はいつもより増してお金に余裕がない。母は大事にしていた宝物の旧札にとうとう手を出します。

百円札の板垣退助、五百円札の岩倉具視、千円札の伊藤博文....。

僕は母の旧札コレクションを見るのが好きだったので、母が使い切ったことがショックでした。

「お母さん、なんで使っちゃったの!?」

僕は残念な気持ちでいっぱいで、きつく言いました。すると母は元気のない声で

「使うしかなかったのよ....」

怒りと悔しさともいえない感情をあらわにしました。大事な宝物を手放してでも家族を守りたい....。今なら母の気持ちも理解できます。

家が建てられない

家を建てるために必要なものは、言うまでもなく土地と資金です。土地に関しては祖父(母方)の所有している畑を活用しようと思いましたが、家を建てられるほどの十分なスペースがないことが判明します。

「ここまで来てまさか家が建てられないなんて….」

途方にくれている母の姿を見て、祖父が動きます。自ら親戚の家に行って「美智子の家族のために、お願いします」深々と頭を下げて、お互いの持っている土地を交換してほしいと申し出たのです。そうして家が建てられる土地が確保できました。

資金集めに奔走

母のパート勤めでは大した貯金もできていません。生活のために宝物の旧札も手放したほどですから。家を建てるために必要な資金は2000万円。母の信用で銀行から2000万円の融資を受けることは不可能です。

ここでも手を差しのべてくれたのは、やはり祖父でした。1300万円もの大金を祖父の貯金から切り崩して援助してくれたのです。

「じいちゃん、ありがとう、ありがとう….」

母は、祖父に止められるまで何度も泣きながらお辞儀をしていました。母が用意すべき額は700万円です。500万円を銀行から借り入れて、残り200万円は無利子で返済できる母子家庭向けの支援機構から借りました。

土地も資金も用意でき、やっと家を建てるメドがついたのです。祖父の助けがなければ家を建てることは夢のまた夢だったでしょう。

悲願、家が建つ

1996年(平成8年)4月、引っ越ししてから3年の月日が経って、ついに家が完成しました。2階には3人の子ども部屋が作られましたが、母のための部屋は用意されていません。寝るときに仏壇の間を使うだけ。

母は自分の部屋よりも父と対話するための仏壇がほしかったのです。アパート暮らしでの3年間は、居住スペースの問題もあり仏壇が置けませんでした。仏壇といっても決して安い買い物ではありません。けれど、新居では父の「居場所」がどうしても必要だったのです。

「目には見えないけど、お父さんも大切な家族でしょ」

初めての仏壇のお供えには、父の大好物だったトンカツを用意しました。

職場内での嫌がらせ

引っ越ししてからパート勤めをしていたK社では6年間働いたのちに辞めました。母は、職場内で嫌がらせにあっていたのです。自分に面と向かって罵声を浴びせられたわけではありませんが、明らかに同僚たちの態度が冷たい。

嫌がらせの輪に入っていなかった同僚から聞くと、主犯格と思われる人物が裏でみんなに母に冷たい態度をとるように仕向けたらしいとのことです。

「パート勤めのくせに、家を建てて気に入らない」

会社の深い闇を知ってショックでしたが、逆にいい機会だと母は気持ちを切り替えます。

「もう念願の家を建てられたのだし、人間関係が悪い職場で働き続ける必要もない」

K社で働きながら次の仕事を探すことにします。母は短大のときに取得した栄養士の資格を活かしたいと考えていました。引っ越しをした際にも、栄養士の資格を活かせる仕事に就こうと思っていましたが、見つからなかったのです。

「今度こそは資格を活かして少しでも収入を上げたい」

そうして親戚の紹介で見つかった仕事が、スーパーでの寿司を作るパートでした。ここでの勤続年数が一番長く24年間働きました。母は少しでも時給を上げようと、社内資格にも挑戦。わずかばかりながら時給も上がったそうです。

母が見たまぼろし

ある日、母は僕に昨日見た夢の話をしました。

「お兄ちゃんとお姉ちゃんが仲良く話していたわ」

母にとって兄と姉が会話する姿は、もう夢でしか見れないと思っていたのかもしれません。僕も兄と姉の間に板挟みになり、家にいても落ち着けるときはありませんでした。しかし、20年以上続いた暗黒時代に変化が現れ始めます。

たつきの結婚

2011年(平成23年)11月、僕が結婚し、2013年8月に子どもが産まれたことにより、兄も姉もおじさんとおばさんになりました。

二人とも子どもを可愛がってくれました。関係が悪化してから、お互いの存在すら認めていませんでした。しかし、春の雪解けのように少しずつコミュニケーションが生まれてきたのです。

2018年(平成30年)4月には、兄も結婚して子どもが産まれました。長らく一緒に住んでいたことがないにもかかわらず、兄と姉の関係性は昔のように改善されてきたのです。

母にとって、これ以上の望みがないほどの喜びです。

30年越しの約束、ハワイ旅行が実現

母の想い続けた夢がさらに叶います。

生前の父が母に約束していたこと。

「ハワイに連れてったる」

姉が高校を卒業してからずっと貯金していたお金を使って、母と一緒にハワイ旅行に行きました。父との約束から約30年後に叶った夢です。

「ハワイの海は、なんて透き通るような青さなんだろう。康平さんは、これを私たちに見せたかったのね」

ハワイ旅行以外にも、兄弟家族と母と総出で家族旅行にも行きました。
旅行から帰り、LINEの通知を開けると、グループLINEに母からのメッセージが届いていました。

「孫と旅行ができて、私は幸せ者です」

38年間ありがとう。最後の仕事の日

長らく務めたスーパーも引退する日が来ました。母は定年を過ぎても、店から頼りにされていて70歳になる目前まで使命を果たしました。

父が亡くなってから38年間、母はずっと一人で走り続けてきました。母が一人でどこかに遊びに行く姿を一度も見たことがありません。母のおかげで、僕たち兄弟もそれぞれ家庭を築けるようになれたのです。

これから残りの人生を、穏やかに過ごしてくれることを願っています。

38年間の激動の人生で、母にとって一番うれしかったのは、家族全員が父の生きた年齢を追い越せたことなのだそうです。

お母さん、今までありがとう。これからも長生きしてね。


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