見出し画像

私は時々、自分がものすごく傲慢な人間のように思う

私は最近、自分はものすごく傲慢な人間なのではないかと感じる時がある。

私は人間関係の構築に置いて、自身の成長に繋がる関係かどうかということに重きを置く。
事、仕事上の人間関係においては特にそうだ。

この人と一緒に居て、私に得られるもの(学び)があるのかどうか。
この人と一緒に居て、私は成長できるのかどうか。

20代の頃は全然そんなふうに考えたことがなかった。
ただ、リゾートバイトで様々な土地、様々な人との出会いと交流の中で、漠然とこの人と一緒に居るのは楽しいとか、この人と一緒に居ても楽しくないとか、そういうことを考えるようになった。

漠然と考えていたものを意識して自分の成長に繋がる相手かどうかという物差しで測るようになったのは20代も終わりがけ、30を目前にしたころだった。人生で初めて、尊敬できる人に出会った。おそらくそれがきっかけだ。

その人の考えや行動原理は私に何の違和感も与えなかった。
行動するのに明確な理由があり、それをきちんと言語化して伝えてくれる。こちらが納得できる説明をしてくれる。
そんなシンプルなことだったが、そのシンプルな行動が私にとってはとても心地よくて、とても大切なものなのだということに気づいた。

尊敬できるということは、自分にないものを持っていて、それを無条件にすごいと思えることだ。嫉妬心なんて微塵も感じなかった。
その人の裏打ちされた人生には、私が邪推を挟む余地なんて存在しなかった。
この人は私の知らないことをたくさん知っているし、それを私に教示してくれる。それだけで私はその人の虜になった。

その人との出会いがあってから、その後の私の人生は自分にとってメリットのある相手かどうかを無意識に判断することが増えていった。
これは、文字に起こすととてつもない傲慢な考え方のように思う。

昔から、自分のレベルを上げたければ、レベルの高い集団に身を置け、というのがある。
そうすると自然と周囲に引き上げられて自分のレベルもあがるのだ。

学生の頃、特に部活動や勉強においてその考えは持っていたが、大人になって改めて、これは人間関係の構築にも当てはまると感じた。

私は別に上昇志向が強い人間ではない。
強いていうならば器用貧乏な人間で、なんでもそつなくこなすが秀でた才能はない。飽き性ですぐに別のことに気移りする。だから何かに特化した技術も能力も持ち合わせていない。
代わりに、興味関心のあるものにはすぐに手を出した。フットワークだけは軽い。
その中で、新しいことを始めるときに私の知らない何かを教えてくれる人というのは私にとってとても魅力的に思えた。私に新しい知識を与えてくれる人=私にとってメリットになる存在であると感じていた。


私は転職して、今月いっぱいで今の職場を辞める。
だからこそ思うことなのだが、今の職場には尊敬できる人もいないし、私にとってメリットに感じる人がいない。そういう対象になる人がいないことが、すなわち私が今の職場を楽しくないと感じる理由なのかもしれない。

別に上昇志向が強いわけではない。けれども、私は好奇心旺盛な人間であることに違いはない。これは性分で、歳を重ねたからといって治まるものではないと思う。
だからこそ、私は私の人生を謳歌するためには、私の興味のあることを教えてくれる人、私の知識欲に応えてくれるだけの知識や経験を有している人、すなわち、私にとってメリットのある人との人間関係に重きを置くのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?