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【歴史概要7】ビザンツ帝国の話

①330年にローマ皇帝コンスタンティヌスはペルシャとの戦いに備えて新たに建設されたコンスタンティノープルに遷都をした。

②395年にローマ帝国が分裂して東ローマ帝国が成立した。

476年には西ローマ帝国が滅亡したため、東ローマ帝国が唯一のローマ帝国となった。

③6世紀にユスティニアヌス帝は領土拡張を行った。

ヴァンダル王国や東ゴート王国を滅亡させ西ゴート王国に侵攻しイベリア半島南部を征服した。ラヴェンナに総督府を置いてイタリアを支配した。

④ユスティニアヌス帝は東方から伝わった養蚕を奨励した。トリボニアヌスに統治機構の整備目的で法典の編纂を命じた。古代ローマ時代から伝わる法を体系化して『ローマ法大全』を完成させた。コンスタンティノープルにはハギア・ソフィア聖堂を建設した。これは現在世界遺産である。

⑤ユスティニアヌスの死後は領土は縮小していきギリシャ、小アジア、バルカン半島を中心として存続していった。

⑥ビザンツ帝国の東方教会で「聖像崇拝論争」が起こりその経緯で726年にレオン3世は聖像の禁止と破壊を命じる聖像禁止令が出た。聖像破壊運動(イコノクラスム)を端緒として1054年にローマ・カトリック教会と正教会は分裂した。

⑥1071年に小アジアに侵攻したセルジューク朝とのマンジケルトの戦いでビザンツ帝国は敗れた。アレクシオス1世はローマ教会ウルバヌス2世に支援を要請した。

これにより十字軍運動が開始された。

ローマ教会は東西教会統一の機会として利用し第4回十字軍は1204年にコンスタンティノープルを占領した事を認めた。ビザンツ帝国は大部分の領土を失ったがニケーアやトレビゾンドなどの亡命政権をつくり存続した。

1261年にニケーア帝国がコンスタンティノープルを奪還しラテン帝国は滅亡した。ビザンツ帝国はニケーア帝国のパレイオロゴスが再興を行った。

⑦ビザンツ帝国は勢力を盛り返したが版図はコンスタンティノープル周辺やギリシャの一部を支配するだけになっていた。14世紀中頃にはオスマン帝国がバルカン半島や地中海に進出してきた。

1453年にオスマン帝国のスルタン・メフメト2世の12万の軍勢が襲来しコンスタンティノープルは包囲され陥落した。ここに約1000年以上に渡って続いてきたビザンツ帝国は滅亡した。

コンスタンティノープルはイスタンブールと改称されオスマン帝国は小アジアを支配した。

⑧ロシアとビザンツ帝国は10世紀ごろから関係を構築していった。キエフ公国のウラジーミル1世はビザンツ帝国皇帝の姉と結婚しギリシャ正教会を国教とした。

13世紀よりキプチャク・ハン国の支配をうけるが15世紀にモスクワ大公国のイヴァン3世は最後のビザンツ皇帝コンスタンティヌス11世の姪と結婚しツァーリの称号を国内的に使うようになる。

雷帝イヴァン4世はツァーリを対外的に使いロシアの立場を強化していった。

ビザンツ帝国の権威はモスクワ大公国(=第3のローマ)に移譲され、ロシア帝国に継承されていく事になる。

ロシアにはギリシャ正教の文化だけでなくギリシャ正教会の修道士によって作られたキリル文字も伝わった。ロシアはギリシャ正教、キリル文字を得ることで、西欧社会に対抗できる政治・宗教・文化的な地盤を獲得した。

■参考文献
『滅亡から読み解く世界史』 関 眞興 実業之日本社

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