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【歴史概要50】義和団の乱・大韓帝国・日露戦争

①戊戌の変法の失敗後に義和団の乱が勃発した。

②日清戦争後、列強の中国進出が激化した。ロシアは旅順や大連、ドイツは膠州湾、イギリスは威海衛・九龍、フランスは広州湾などを租借の名目で植民地分割していた。

③列強進出によって鉄道の敷設や海上輸送の拡大、鉱山開発や工場建設などによって下層労働者の生活は圧迫された。

④義和団の乱はキリスト教宣教師が中国での布教を盛んに行ったことがきっかけで起こった。教会や宣教師を襲う仇教運動も頻発した。山東省は孔子の生地曲阜があったので外国勢力への拒否反応は大きかった。

⑤山東省で1898年ごろから排外主義、非キリスト教的性格を持った義和団(義和拳)の活動が激化していった。

李鴻章などはこれに鎮圧を進言したが清朝政府はこの反乱をサポートするようになった。

⑥義和団は「扶清滅洋」を叫んで北京にいたり諸国の大使館が集中していた区域に外国人居留民が追い込まれる事態となった。これに対して8カ国連合軍が組織され反乱に対応した。

⑦中国への野心がある日本の参加に対してロシアは難色を示したが、イギリスとアメリカの思惑で日本は参戦した。日本は連合軍中最大の2万の兵士を派遣した。

⑧清朝と義和団は敗北した。

和平案をめぐって連合国側が対立した。1901年に北京議定書(辛丑条約)が結ばれ巨額の賠償金の支払い、外国軍隊の北京駐兵権などが認められた。これで中国の半植民地は決定した。

⑨この事件がきっかけとなってロシアが満州を占領し朝鮮半島への野心を明らかにしたことで4年後の日露戦争に繋がっていく。

⑩日清戦争後の朝鮮では閔妃がロシアと結び、戦争前に日本に擁立されていた大院君を追放した。大院君の復権を目論んだ日本の駐韓公使の三浦梧楼は王宮を占拠するために閔妃を殺害した。

⑪王妃を殺害された26代目皇帝である高宗はロシア大使館に逃げ込み、朝鮮はロシアに急接近した。1897年には日本に対抗して国号を大韓帝国と改称した。

⑫この状況で満州と朝鮮をめぐって日本とロシアの関係は緊張感を増していった。1902年に日英同盟協約でイギリスと同盟した。露仏同盟を結んでいたフランスとバルカンでロシアと対立を避けたいドイツはロシアをサポートした。

⑬日本は1904年2月初頭に開戦を決定し朝鮮半島や黄海で作戦を展開した。2月9日のロシアの宣戦布告を受け日本も10日に宣戦布告した。

⑭緒戦でロシア軍を破ったがロシアは単線のシベリア鉄道を一方通行で利用して夏には25万の大軍輸送を実現した。日本は15万の兵力で対応した。遼陽の戦いで日本は勝った。

⑮1905年初頭に日本は旅順要塞を陥落させた。奉天の戦いでは勝利し、日本海海戦でバルチック艦隊を破った。ロシアでは血の日曜日事件が起こり国内は混乱しており戦争継続は困難となった。

⑯アメリカ大統領T・ローズベルトの調停を受け入れる事となった。日本の全権代表の小村寿太郎とロシアの代表であるウィッテは9月にポーツマス講和条約に調印した。

⑰ロシアは日本の韓国に対する完全な優越権を認め遼東半島南部の租借権や長春以南の鉄道(南満州鉄道)を日本に譲渡し北緯50°以南の樺太の領有権を日本に認め、沿海州やカムチャッカの漁業権を認めるなどの条項に同意した。

しかし賠償金に関しては成果が出なかった。これにより国民の不満は高まり日比谷焼き討ち事件などに繋がる。

⑱日露戦争で日本が勝利し国際関係は大きい変化があった。アメリカと日本は1905年の桂太郎とW・タフトが結んだ桂・タフト協定でフィリピンと朝鮮の権益を相互に認めていた。

⑲1907年に日ロ協約で両国が満州の南北で相互権益を認め合うと満州に関心を寄せていたアメリカは日本の満州での権益拡大に反対し関係は悪化した。アメリカでの日本人移民排斥運動はこういった国際関係が背景となる。

⑳ロシアは極東を離れバルカン半島に矛先を向けた。このためバルカンでのドイツとの対立が激化してサラエボ事件に連なる。日露戦争は第1次世界大戦の前哨戦であった。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 下』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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