見出し画像

ファンや信者は社会のゴミである

田吾作の経歴活躍ストーリーにも共通する話だがファンや信者である事の価値など微塵もない。

公共性を担保するためのサポーターであればまだ社会的価値はあるがファンや信者である事の価値はない。推し活をしている連中に存在価値はない。

社会分断を縮め公共性を担保できるのであればあらゆる宗教や企業や団体はきわめて意義があるがそうでなければ意義はない。

一神教の隣人愛や多神教の融和性は分断の解消に努める人々の事であり選民化したファンや信者の事ではない。分断解消に努めるために反イスラエルを標榜する姿勢は真っ当な信仰者であり近現代人である証明である。

「私は〇〇のファンです。」と誇示する背景には「私は〇〇というクラスタに所属してます。」と誇示したい低能の承認欲求がある。要は社会分断を自ら作り出して自己選民化に浸っている社会のゴミなのである。

こうなると全体的に調整や交渉、抵抗運動が下火になっていくんですね。相対主義やネオリベで分断や差別をしながら結束性を高める方向に行くわけです。政治や経済や宗教や教育や文化含めてすべてレベルが下がっていくんですね。

「私は日本人でーす。」と誇示する背景には差別をして自分が優位に立ちたいという田吾作回路が存在しているのである。田吾作とファンや信者はほぼ同義語であり親戚の関係である。

「私は〇〇という業界人です。」「私は2人の子どもを育てているお母さんです。」という文言も同じぐらい田吾作構文である。田舎臭い洗練されていない自己紹介である。

何らファンでもなく信者でもない人とわざわざ「推し活してまーす」と嘯くファンや信者どちらが社会悪なのか答えは明白だ。

この記事が参加している募集

私の推しキャラ

学習教材(数百円)に使います。