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【歴史概要123】ヴェネツィア共和国・ミラノ公国・君主論

①ヴェネツィアはアドリア海の奥のラグーンにゲルマン人の侵入を避けた人々が避けた都市であった。貧しい漁民たちが住んでいたが人口が増加して独立国家となっていく。

②ヴェネツィアは地中海東方の諸都市との交易をして経済力をつけていった。海賊はヴェネツィアの商船を襲ったが対抗するために海軍を建設して強国となった。

③十字軍はヴェネツィアに莫大な富をもたらしたが商業倫理は問題視されていた。ビザンツ帝国を攻め滅ぼしたり少年十字軍の子どもたちを奴隷に売ったりしていた。

④ヴェネツィア政治にはドージェという最高権力者がいた。第4回十字軍のエンリコ・ダンドロが著名である。ドージェは形式存在になり果ててヴェネツィアの覇権は終焉した。

⑤ヴェネツィア産業ではガラス工芸品が有名である。起源はオリジナルか東方の影響を受けたかはっきりしない。ヨーロッパ需要の高まりのなかで発展していった。

⑥低迷期は1508年に結成されたカンブレー同盟との戦争であった。ローマ教皇、フランス、スペイン、ドイツ(神聖ローマ帝国)が同盟してヴェネツィアと戦った。こうしてヴェネツィアは敗北した。

⑦ミラノはケルト人の集落に起源を持っている。古代にはメディオラヌム(草原の中心)と呼ばれた。ローマ時代も重要な拠点都市で教皇に公認されていた。

⑧ゲルマン民族の移動期にミラノで有力武将が育っていった。そして中世都市ミラノが形成されていく。

⑨ミラノはイタリア北部ロンバルディア平原にあるのでアルプスを越えて神聖ローマ帝国やフランスに侵入されやすかった。

⑩12世紀の神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世との戦いでは周辺都市とロンバルディア同盟を結び打ち破った。

⑪13世紀にはヴィスコンティー家とスフォルツァ家が支配権を握った。15世紀からはスフォルツォ家からルドヴィーコ・スフォルツァが台頭した。

⑫ルドヴィーコ時代はミラノはルネサンス期でありレオナルド・ダ・ヴィンチは20年ほどルドヴィーコの保護でミラノに滞在した。

⑬しかしルドヴィーコはフランスとの戦いで失脚をして最後はフランス軍に捕まって獄死した。

ミラノ公国は最終的にスペイン支配となった。ダ・ヴィンチはフランス王であるフランソワ1世の保護を受けた。

⑭フィレンツェの外交官であるマキャベリはロレンツォ・ド・メディチの独裁からサヴォナローラの神聖政治、シャルル8世のナポリ遠征と激動時代を生きた。

⑮彼が関心を持ったのはピサの併合であった。ただフランスやスイスの傭兵を使った作戦は失敗であった。こうして自国軍を持つ必要性を認識し『君主論』に生かされていった。

⑯周囲の大国からの危機に対応するためにイタリアの統一が急務だと論じている。近代政治学の先駆けである。

⑰1527年のローマ略奪でメディチ家がフィレンツェを追放
されるとマキャベリも失脚した。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 上』 関 真興 日本経済新聞出版社

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