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【歴史のない日本伝統7】日の丸(国旗)

右翼は低偏差値であったり歴史を知らないのに「日本の伝統が大事だ」とすぐに云う。しかし右翼が強調する伝統や歴史観などウソだらけで伝統性など乏しいものばかりだ。

今回は日の丸(国旗)の歴史のなさを説明する。
元々日の丸は皇室と天皇が祝賀で使うただのマークである。

日本の国旗は日の丸だと誰もが信じており日章旗を掲げる事が愛国者のシンボルだと思われている。

日の丸の正確な起源は不明であるが平安時代には皇室の祭祀などで掲げられていた。ただ当時の日の丸は赤地に金の太陽であった。今の形になったのは源平合戦の前後と云われている。

従来の旗を掲げる平家軍に対して源氏軍は白地に赤丸の旗を使って源氏が勝利した事を正式化したと云われている。山梨県の雲峰寺には1056年に源頼義が後冷泉天皇より下賜された最古の日の丸が安置されているのでそれまでに成立したと考えられている。

鎌倉時代には武家が扇の模様に日の丸を使い戦国時代にも上杉や伊達家などの有力諸大名の旗印にされる事もあった。江戸時代には江戸幕府の米積船の船印に使われるようになった。

明治新政府の樹立により正式に国旗と認定された。戦後も国旗が変更される事はなく日の丸は日本国旗たる日章旗となっている。

こうした歴史を辿ると日の丸は「古代太陽信仰の時代から連綿と続く日本のシンボル」と見られやすい。しかし古代の日の丸は皇室と天皇が祝賀で使うマークであり現在のマークではなかった。

江戸時代には江戸幕府の船印となり明治政府もこれを継承した。しかし事実上国旗となった戦前や戦中は日の丸を国旗と定める法律は存在しなかった。日の丸が正式に日本国旗となったのは1999年(平成11年)である。

戦前に日の丸が国旗と認定されたのは幕末開国に理由があった。ペリー艦隊来航と開国の決定により江戸幕府は外国船と自国船を区別するために旗印の作成に着手した。そこで官船の船印を日の丸にしたのだ。

ペリー来航翌年の1854年(嘉永7年)に御触書で大型船の船印に日の丸が認定されてさらに1859年(安政6年)の触書にて日本の総船印である御国総標に定められた。この決定が欧米諸国に認知されたので対外的には日の丸が国旗と認識された。

明治政府もこの方針を継承し日の丸を日本国船を示す船印とした。1870年(明治3年)の太政官布告の第57号と第651号で商船と軍艦に掲げる日の丸の規格が決まった。民間では祝祭日に国旗を掲げる海外の習慣に倣い日の丸の旗を振る風習が根付いていった。

しかし太政官布告は日本船舶の船印の規定であり日の丸が国旗であると明言する法は最後まで作られなかった。

1931年(昭和6年)に大日本帝国国旗法案が帝国議会に提出されたが廃案となった。

敗戦後にGHQにより掲揚が禁止されていた日章旗は1948年(昭和23年)に使用が許可された。戦時に軍部シンボルとなっていたので続投への疑問視が多かった。

学校現場では卒業や入学式での国家斉唱と国旗掲揚に反対する教職員が目立っていた。

文部省(文部科学省)は1996年(平成8年)に事実上の義務化を調達した。教職員と活動家の一部は思想・良心の自由を理由に反発をした。広島県の高等学校校長が自殺する事件も起きた。

こうした動きにより政府は国旗と国歌の法制化にのりだした。政府内で反発はあったが法制化の動きは進んだ。

1999年(平成11年)8月に国旗及び国家に関する法律(国旗国歌法)が成立した。この法律でようやく日の丸は正式に日本国の国旗となった。

縦横比率が7:10であったが縦横2:3となった。明治の太政官布告から約130年後のことだ。

(結論)
日の丸は皇室と天皇が祝賀で使うマークや外国船と自国船を区別するためのマークとして重宝されていた。対外的には国旗と認識されてはいたが太政官布告の規定に留まり続けており1999年(平成11年)8月まで正式な日本国旗ではなかった。またデザインや比重も時代によって異なっている。

■参考文献
『日本人が大切にしてきた伝統のウソ』オフィステイクオー 河出書房新社

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