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【歴史概要125】オスマン帝国

①オスマン帝国は1299年に建国された。中央集権的な統治を行っていたが、宗教の自由を認めるなどゆるやかな支配を行っていた。

②3代目ムラト1世の時代にはバルカン半島(東欧南)で猛威を振るっていたセルビア公国をコソボの戦いで破ることでセルビアをオスマン帝国の傘下に入れバルカン半島の版図を広げた。

③14世紀にはヨーロッパへ進出したものの、1402年に東から侵攻してきたティムールに4代目バヤジット1世は敗れ、混乱に陥った。

④1453年7代目メフメト2世の時代に東ローマ帝国を滅亡させ、コンスタンティノープルと呼ばれていた首都をイスタンブールと名を変え小アジアを統一した。

⑤エジプトにあったマムルーク朝は1517年にオスマン帝国の傘下に入るが、その際9代目セリム1世の時代にスルタン=カリフ制度が確立したと言われている。

⑥10代目スレイマン1世の時代、16世紀には地中海の南・東岸から黒海沿岸の大部分を版図におさめ、大帝国となった。

⑦長年キリスト教とイスラーム教勢力が対立する中、一時はウィーンにまで迫ったものの、次第に衰退していく。

⑧日常的な飲み物であるコーヒーはイスラーム世界で飲用が始まりイスタンブールでは16世紀の半ばに「コーヒーハウス」が店を出した事で社交の場の飲み物として定着する事になった。

⑨第2次ウィーン包囲周辺でコーヒーがヨーロッパに伝わりヨーロッパにおいてコーヒーハウスは情報交換の場となり新しい思想が生まれる事となった。

⑩1821年に始まったギリシア独立戦争によりナショナリズムが勃興し初めエジプトでも独立への動きが見られるようになる。19世紀の後半にはロシアの支援を受けたバルカン半島のスラブ系民族の動きも急になってくる。

⑪その影響を受け1830年代にはタンジマートという近代改革を行いオスマン帝国の再建を図り、1876年にはアジア諸国で初の憲法であるミドハト憲法を制定した。この頃に活動した近代理念を重視するオスマンの人々を新オスマン人という。

⑫2度にわたるバルカン戦争、第1次世界大戦に敗北し、1922年にトルコ革命によって帝国は崩壊した。

11世紀セルジューク朝以来の世俗権威スルタン制度が廃止され、1924年にはムハンマド義父アブー=バクル以来のイスラーム最高権威であるカリフ制度が廃止される。

⑬トルコ共和国はムスタファ・ケマルによって創設され、政教一致のイスラーム国家ではなく世俗国家として樹立される。アラビア文字ではなくアルファベットを使うようになり、近代国家モデルに基づきトルコ人を作っていく事になる。

⑭オスマン帝国領の西アジア地域はフランスとイギリスの委任統治領として分割された。

シリアやレバノンはフランス、メソポタミア(イラク)やパレスチナ、ヨルダンはイギリスの実質的な統治となる。

これが現代のパレスチナ問題やクルド人問題、人為的に分割された中東地域の国民国家問題に連なっていく。

■参考文献 『滅亡から読み解く世界史』 関真興 実業之日本社

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