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【歴史のない日本伝統8】専業夫婦

右翼は低偏差値であったり歴史を知らないのに「日本の伝統が大事だ」とすぐに云う。しかし右翼が強調する伝統や歴史観などウソだらけで伝統性など乏しいものばかりだ。

今回は専業夫婦の歴史のなさを説明する。
専業主婦は高度経済成長期から使われ始めたものであった。

調理や育児は明治時代から戦前にかけて女性が担っていた。良妻賢母という新方針で母親は子どもの教育まで強制させられた。

しかし専業主婦という言葉は1960年代から1970年代にかけて使われ始めたものであった。男は仕事、女は家事という役割分業のイメージは江戸時代の武士にあった。しかし江戸時代の人口における武士割合は10%に満たない。

ほとんどが農民であり女性は野良仕事をする。町民であっても
商家は女将が商いを仕切り職人の家でも妻が仕立てをしていた。
下級武士は貧乏であり妻が内職で家計を補っていた。

大名や旗本クラスでも正室は奉公人の管理という仕事があり将軍家であっても御台所は大奥の筆頭としての役目があった。大名や京都の朝廷も公家も同様である。江戸時代以前に家事だけに専念する女性など存在しなかった。

明治時代に入ると女性は教育を受けて知識と技術を得た。

しかし良妻賢母を強いられ嫁いで家事だけをこなしていればいいわけではなかった。

資本主義経済の採用と急速近代化によって日本は人手不足となった。家父長制度であぶれた農村出身の次男、三男だけでは足りなかったので女性労働力を補充・補足要因とされた。

日本工業で目覚ましい発展を遂げたのは繊維工業だった。日本の絹織物は世界で評判であり輸出品目であった。女性たちは繊維工場で働き日本産業を支えた。

教員、看護師、助産婦、電話交換手など活躍の場が広がっていった。1904年から1905年の日露戦争が拍車をかけた。

当時の人口増加率は12%前後が平均だったが日露戦争の終焉した年と翌年は9%に8%だった。

働き盛りの男性が減り一家を支えなければならない女性が増えた。戦争の勝利で貿易や軍需産業に代表される重工業も発展した。こうしてさらに女性の労働力が必要となった。

当時の民法では既婚の女性は無能力者(制限行為能力者)と見なされており契約や訴訟などの法律行為を行うには夫の許可が必要だった。(旧民法第14条)そんななかで女性は低賃金で福利厚生もない状態で就労を強いられた。

中途半端な立場ではあった女性労働者だったが勤労意欲は損なわれなかった。都会ではサラリーマン家庭も増加するが共働きも増えた。

しかし男性の労働力が回復し始めると国は女性の主婦化を推進した。

1934年(昭和9年)に松田源治文武大臣が国会で「日本婦人は夫を授(たす)けるもので解放すべきものではない」と発言した。1938年(昭和13年)にはナチスドイツの「母よ家庭に帰れ!」というスローガンに呼応して愛国児童協会が「母よ家に帰れ運動」を実施した。

理事は「ヒトラー総統はすでにやっていたのに我々日本人がはじめるのが遅すぎるぐらい」と11月16日付夕刊の『朝日新聞』でコメントをしている。翌年に日本勧業銀行(みずほ銀行)は結婚奨励のために女性の28歳定年制を実施した。

現実は「貧しい家庭の女性は家庭に帰りたくても働かなきゃならないから帰れない」(『読売新聞』1936年3月28日朝刊)と女性解放運動家の平塚らいてうが反論していた。

日中戦争から太平洋戦争へ至る戦時下になると男性の数は減り女性は働かざるをえなかった。

戦争が終結してGHQの指導があって女性はようやく解放された。しかし戦後復興が終わると日本に好景気が訪れた。高度経済成長期の到来で企業は大勢の社員の獲得に奔走した。

安定した給与と充実した福利厚生といった厚遇をもって労働力を確保した。農業、漁業、林業といった第1次産業から第2次、第3次産業へ転身するものが多かった。金の卵として地方から都会へ中卒の少年たちを集団就職させたのはこの時期であった。

都会の急激な人口増加に伴って団地が建設された。洗濯機や冷蔵庫といった電化製品が普及して家事への専念を望む主婦が増えた。夫の収入に余裕があるから妻は働く必要はなかった。核家族化で舅や姑と暮らす必要もなかった。

ここで専業主婦が誕生した。

年功序列、終身雇用が当然で景気が右肩上がりの時代に男性は自分の働きだけで家族が養えるという自信を培った。妻を家に閉じ込めておく事で一家の主としての自負を得れた。

(結論)

専業主婦は昭和後期に生まれたものでありたいした歴史はなかった。第2次、第3次産業変遷の中で男性はバリバリ外で働き女性は家を支えるという革新的な役割分業が行われていたにすぎない。

■参考文献
『日本人が大切にしてきた伝統のウソ』オフィステイクオー 河出書房新社

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