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過酷な冬

フィルター切りの男

2002年の年末、俺は故郷の山形県鶴岡市に帰った。
足が痛くて肉体労働は出来ないのだけど近所で住宅設備の会社を経営していたトモちゃんのところ(実家から約100m)で販売している換気扇の交換用フィルターを規定のサイズに切断する仕事があると言うのでその会社でひたすらフィルターを切って小銭を稼いでいた。
トモちゃんの会社は今でこそ立派な法人会社になって関東でも仕事をこなしているようだが当時は後輩のヤンチャ者を集めて営業に行かせて社長は営業には出ずに会社で待ち、営業から戻った販売出来なかった者は延々と社長に説教されると言う素晴らしい状況だった。
アルバイトの俺だけどちょいちょい飯はご馳走してくれるので社長と社員達と一緒によく飯を食わせて頂いていた。
トモちゃんは酒を飲みながら説教や小声を社員達に言い続けているのだが社員達は翌日の仕事もあるので1人2人と帰っていく。
最終的に数名残ると「亮君もう一軒行ごぜ」と社長は俺に言う。
俺は金が全く無い状態なので、ご馳走になるしか無いのだが、それにより上下関係が発生してしまい酔っ払った彼は幼馴染の俺に説教を始める。
完全な絡み酒なので社員達と違い、俺は怒って帰るのだが仕事はこれくらいしか出来ないので次の日もまたフィルターを切り続けるのだった。
怪我のせいで出来る事が少ないからバイトをさせてもらっていたのだがトモちゃんは俺に「亮君も営業やってみねが?」と言ってくる。
直感的に彼の元で正式に働くと一生友達でいられなくなる気がしたので断ったのだが、このままフィルターを切り続けても関東には戻れないので、お金を稼ぐ何か別の事をする必要があった。

U野組

年が明けて2003年になった。
親父の会社の近くにU野組と言う型枠大工の会社があった。
親父の会社のトラックを置いている場所がU野組の隣でU野組の社長と親父は挨拶くらいの会話をする仲ではあったのだがU野組は忙しくて人手不足で大変な状況だった。
親父が社長にうちの倅が帰省していて型枠大工の職人だと話すと是非働きに来て欲しいと言う話になった。
フィルターはかなりの数を刻んでおいたのでトモちゃんの会社に別れを告げて、久しぶりに寅壱の作業着を用意した。
右足首にテーピングをぐるぐる巻きにして肉体労働に備えた。
この年は雪が多くとても冷え込んだ。
関東の現場で磨いてきた俺の腕が通用するのか興味があったし自信もあった。
初出勤の日に会社に着くと皆がストーブで暖をとっている。こんな光景も雪国ならではだ。
鶴岡市内よりも深く雪の降る月山に車で向かい1時間ほど雪道を走って西川町と言う町に流れる川が現場だった。
川の中の魚が通る魚道を作ると言う今までに経験の無いものを作らなければいけない。
U野組にしてみれば俺のお手並み拝見といったところだが1ヶ月も体を動かしていなかったので楽しい気持ちが大きく張り切って働きまくった。
右足首は痛むけれど我慢すればなんとかなった。
関東では雪が降れば基本的に現場は休みになるのだが山形は違っていた。
コンクリートの土間やベニヤに墨を打っても雪で消えて見えなくなりゴム手袋を付けて雪と格闘する。
段取りよく働いていると社長は俺の技量を解ってくれたようで、どうやれば良いかと工法を相談してくるようになった。
関東で働きまくった技術は十分に通用している。
現場は人手不足なようで本業では無い木造大工や土工のおっさんも多くいた。
その土工の中には俺の小中の同級生もいた。
俺は図面を見れるので皆に説明して動きまくった。
誰か知り合いに働ける人はいないか?と社長に言われたので同級生で実家が木造大工のヨシオと言う男を誘って一緒に働く事になった。
車の運転までも担当するようになり図面を持ち帰っては家で材料の拾い出しなど完全に職長レベルの仕事を任された。U野組で年の近い何人かでチーム長南が結成されたのだった。
短期間ではあったが沢山の現場を経験させてもらった。
養豚場の飼料置き場、海水浴場ののトイレ、現場がそれぞれ遠く雪道の移動は大変だった。
トイレの現場は隣の酒田市まで行くのだが吹雪でホワイトアウトするような農道の一本道をライトバンで結構なスピードを出して進んでいく。
1時間ほどの道中、片道で多い日は3台くらい田んぼに車が落ちていた。
西川町の現場の帰り道では月山の112号が車の事故が原因で大渋滞をしていて、事故の車の運転席部分が潰れていたのだけど運転されていた方は亡くなっていた。通勤するだけで危険を伴う環境だ。
そんな過酷な状況だったのだが仕事も運転からガンガンやりまくっていた。全てはまたDEEPで戦う為に。

セントル軍団再び

週末になると仲間で集まりよく飲んだ。
今までは地元の同級生達とは盆や正月の長期休暇以外に飲む事が無いので、日常の生活の中で酒を飲み交わす事が楽しかった。
週末に車でケンヤの家やユタの家に行って泊まりで飲むのだが関東の仕事場の同僚やU-FILEの仲間と飲むのと違って、何でもお互いを知る間柄なのでこの時期限定かも知れないけど俺にとって貴重な時間だった。
格闘技を始めた事により応援してくれる後輩が沢山増えていた。
出身校の3中の後輩達を中心に当時の乱世の鶴岡の街で暴れていた連中が俺の親衛隊のように集うのだった。
2003年の鶴岡は引き続き荒れていて居酒屋や路上で乱闘が勃発するのが常だった。
そんな中で俺は先陣を切って飲んで沢山で集まり騒いでいた。
理不尽にチンピラに絡まれたりもするのだがどうなったかは想像にお任せする。

同級生のシンの結婚披露宴の二次会

足は寒い日は特に痛むのだが怪我をしてから2ヶ月くらい経つと軽い運動が出来るようになってきた。
友人達とボーリングやバドミントン、バスケなどをやって汗をかいてリハビリをした。

小真木の体育館にて


毎日休まず格闘技をやっていたせいかバスケは中、高時代より確実に上手くなっていた。

U野組の給料が入るとカードローンのATMに月々の返済に行く。俺みたいな若造と違って農家のお婆さんが軽トラでATMに来ているのを見て衝撃を受けた。
この時代の消費者金融は全国的に猛威を振るっていた。パチンコで大儲け出来た時代でもあったので、それが原因の多重債務者も多かった。

関東ではがっちり働いた後に、2時間格闘技の練習をしてから午前3時まで飲んで早朝から仕事に行ったりもしていた俺だ。山形の過酷な冬だとしても仕事だけなら体は楽勝だった。
一生懸命働いていて仲間に囲まれていると居心地はだいぶ良かったのだが、このままここに留まる訳にはいかない。
格闘技で復帰する為の準備をしなければいけなかった。
同じ高校で極真空手の先輩の上田君を車で走っている時に、たまたますれ違いお互い気がついたので携帯の連絡先を交換して後日会う約束をした。

上田君は極真山形藤島支部の指導員になっていた。
自分は格闘技でプロデビュー出来た事や怪我で帰省している事など積もる話を近所の居酒屋で話続けた。
高校の時と変わらず上田君は奢ってくれる優しい先輩だ。
現状蹴りが出来る状態では無いので上田君の通っているウェイト施設を紹介してもらう事にした。
酒田市にある“スポーツジムKEN”と言う個人のジムで代表の息子さんは俺の1つ年下で同じ極真の酒田支部に高校時代所属していた事もあった。
息子のタケヤ君は自分と違って空手で結果を出していて審査会で組み手をして俺が負けた事もあったのでどんなトレーニングをしているのか興味があった。
代表の佐藤さんは自分の事を覚えていてくれて総合のプロ選手になった事を喜んでくれた。

トレーニングを開始するのだが下半身は出来ないので上半身のみの内容で週に2、3度ほど通わせてもらった。
ボディービルベースのウェイトのスタイルだったのでがっちりパーツごと効かされる感じだった。
プロテインに加えてクレアチンも摂るように勧められた。
おかげで確実に胸、背中、肩周りは短期間でパワーアップする事が出来た。
腹筋は苦手だったけど。

その頃東京では

前年末に、田村さんと木下さんから聞いていたU-FILE CAMPの自主興行のU-STYLEと言うU系プロレスの旗揚げ大会が2.15に行われると言う。
木下さんは「将来的に長南も」とか言っていたけど俺は全く興味がなかった。
好きだったプロレスを否定してUWF、極真空手、総合格闘技へと辿り着き命を懸けていた。
今の時点で将来的にプロレスをやりたいなど思う訳がない。
中学生時代にビデオで見た第二次UWFは俺にとってはガチだったのだ。
木下さんは総合は長くやれないからって言うけれど、長く続けるより燃え尽きたいと思っていたのでU-STYLEについてはジム一丸となっている中で俺だけが消極的だった。
この大会はPPVだかサムライだかで見た気がするかぐらい記憶がない。
その翌月に行われる3/4 DEEP 8th Impact後楽園大会には修斗現役ライトヘビー級チャンピオンの須田さんの参戦に続き、桜井“マッハ”速人が参戦すると発表されていた。
対戦相手はDEEPミドル級チャンピオンで同門の先輩である上山さんだった。

当時の修斗の象徴的選手、国内最強で世界でもトップレベル。階級を上げたいとも言っているようで、まさかの自分の参戦しているDEEPのミドル級に乗り込んで来る事になったのだ。
しかしこの時期の上山さんはDEEPのトーナメントを制した勢いもあり、やってくれるのでは?と期待をして山形から応援していた。
しかし実際の試合は腰の重いマッハ選手から上山さんがテイクダウンを奪うも下から殴られ関節技を仕掛けられ試合の大半がタックルを切られた状態で殴られると言う内容で完封されてしまった。

当時、桜井“マッハ”速人は日本最強と言われる選手の1人だと思っていた。
足を怪我して山形の田舎で何もする事が出来ずに映像から流れてくる現実に無力感を味わうのだった。
早くあの場所に戻らなければ…

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