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2000年の過ごし方

仕事が早く終わってジムにオープンぐらいの時間に行って打撃の練習をしていると田村さんに声をかけられた。
「長君キック出てみない?」
「えっ?」って言う感じで意味が解らなかった。
「自分は総合をしたいです」と言うと田村さんは「総合はレスリングあるから難しいよ」と言う。
そもそも総合やりたくてここにいるのに…
あまり興味のなさそうな俺に田村さんは「キック向いてると思うなぁ〜」と寂しそうに語って去って行った。

下克上

まだ昇給試験を受けていないから上のクラスには参加できないものの土、日のフリーの時間に決まって太志朗や佐々木達と集まりスパーをするようになっていた。
今までは初級が集まって練習するような風潮はなかったみたいなので先に入っていた人達からすれば珍しい光景だったのかも知れない。
俺はプロになる気は無いけれど面白くて仕方なかったので入会後は毎日休まず通っていた。

俺が入会した2000年当初、U-FILEには暗黙のルール的に上のクラスである黄色いTシャツや青いTシャツの人達と初級の白Tシャツが混ざって練習する事は少なかったし初級の面々はフリーの時間にマットスペースを堂々と使ってはいけないような空気が流れていた。
そんな空気を一切読まずに我々はガンガンスパーをしていた。
俺達の練習を見て初級でももっと練習したそうな面々が集まって来るようになった。
俺は太志朗が俺達のリーダーだと思っていたけど周りには長南軍団と呼ばれていたそうだ。

多分なのだが上級の人達は「なんだあいつら?」と思いながらも自由に練習する俺達が羨ましくも見えたはずだ。
土曜に何人か上級の人達とグラップリングのスパーをする事になったのだが俺や太志朗は対抗戦のように燃えた。
俺達は試験を受けなければ上のクラスに参加も出来ない初級の集まりだったが、ここで極めれば俺達の存在がアピール出来るはずだ。
俺はその日、スパーが始まると上級相手に手当たり次第にアキレス腱を極めたのだった。
周りを見れば太志朗や佐々木も奮闘していた。
細かい技は上級の人達の方が知っていたが俺達には勢いがあった。
U-FILEはwikiでは2000年に設立と書かれているが設立は俺が入る3年前の1997年だったはず。
3年の歴史の中で俺達は明らかに新しい風だったと思う。
すると上のクラスにからも森山君(森山大)や吾郎ちゃん(小林吾郎)なども俺達の練習の日に混ざって参加するようになった。

松田恵理也

前年のアマチュアリングスで準優勝した恵理也君は入会後もなかなか会う事がなかった。
太志朗や皆が言うには、めちゃめちゃ強いと。
年齢は俺の一つ下で同じ極真ベース。
面白い事に恵理也君の地元沖縄の支部長、七戸康弘師範は自分の師匠の田畑師範の後輩で山形の夏合宿の時に七戸師範が招待され来県された事があり、自分は当時の全日本で活躍する七戸師範にシンガードにサインをもらった事があった。
話は逸れるが繋がりと言うと自分がグラップリング初日に練習したアラは沖縄出身でエリヤ、エリヤと恵理也君の事を沖縄の後輩的に気にかけていたのだが、初日に言ったうちの会社に山形出身の奴がいると言った山形出身が俺の中学の同じクラスだった同級生でそれにはとても驚いた。
アラと俺の旧友が働いていたパチンコ屋には、たまに田村さんが来ていたそうだ。

話を戻すと恵理也君は昼間に田村さんと練習しているから、なかなか夜の時間には来ないと言う話だったのだが、ある日の土曜、急にぷらっと俺達の練習している時間に恵理也君が現れたのだった。
恵理也君は当時のジム内では上山さんの次のようなポジションの存在だった。
打撃だけでは無く寝技も強いと聞いていたので胸を借りるつもりでスパーをしたのだが俺は足首を捕らえるや、いつものアキレス腱で極めてしまった。
その後もスパーを続けたのだが何度かアキレス腱を極めると恵理也君は「これは凄い武器ですね」と俺のアキレスを絶賛してくれた。
更には俺達が集まって練習している話をすると今度から自分も混ぜて欲しいと言う。
天然っぽい人だが格闘技を自分並みに詳しく知っていて空手では遥かに自分より実践のある恵理也君が一緒にやりましょうと言ってくれた事が嬉しかった。
その後、一度だけ極真ルールでスパーをした事があったのだが胸の真ん中にゴンゴン正拳を突かれ腹に前蹴りを突かれ30秒くらいで俺はやられた。
それでもやっぱり俺は強い人と練習が出来て嬉しかった。

うちに来てバンソンを着ておどける恵理也氏

仕事仲間

俺が働いていた榊工務店にはケンゴとシゲトと言う沖縄出身の年齢は俺の一つ上の2人がいた。
ケンゴは図面も理解していて同世代なのに結構仕事が出来ていた。
シゲトは当時は図面はよく解ってはいなかったが俺並みのパワーがあって現場の中でどっちがどれだけ材料を担ぐ事が出来るか勝負する事もあった。

この沖縄人達は非常に酒が好きだった。
2人はだらしなく飲みベロベロになると2人で喧嘩を始める。
喧嘩になると地元の言葉になるので何を言ってるか解らなかった。
そして飲んだ翌朝に仕事があるのに2人は起きて来なかったり、来ればシゲトの顔がボコボコになってたり、親方も怒るものの「あいつらはまったく」と呆れた感じで許容されていた。
2人は金の使い方も豪快だった。
消費者金融のATMに行くと10万円を引き出し速攻で飲んで使い果たしていた。
自分の金じゃないのに気前よく奢ってくれていた。
仕事帰りの車の中でも皆でよくビールを飲んだ。俺はビールくらいなら余裕で飲んで練習に行ったのだが練習相手にちょっと酒臭いと言われても30分経てば汗と一緒にアルコールは消えていた。

俺の借りた部屋にエアコンが無くて夏が近いのでエアコンを買わなければと電気屋に見に行ったら工事費込みで8万円ほどかかると言われた。

U-FILE入会当初俺に借金は全く無かったので、すぐに返せば良いと思い俺はシゲトに消費者金融のATMの使い方を教えてもらった。
無人ATMに免許証を持って行くだけで中から10万円が出てきた。
グレーゾーン金利時代で最大金利が28%だった頃だ。

俺はケンゴやシゲトみたいに使わないからそんなに危険だとはこの時は思っていなかった。
10万円はすぐに返済した。
すると限度額が20万にいきなり上がった。
それは地獄の始まりだった。

シゲトやケンゴとは今現在でも連絡を取れる。
彼らは多重債務者だったしその後俺も多重債務者となったけど、自力で借金を返し、今現在も日々現場で戦っている。
彼らが俺にとって最後の現場仲間になるのだった。
この時の俺達は無謀だったけどとてもパワーが溢れて攻撃的だった。

職人とフリーター

ジムの練習仲間はフリーターがほとんどだった。
皆が自給1000円にも満たない時代にアルバイトをして生活をしていた。
とにかく皆が貧乏だった。

俺は10日も働けば佐々木恭介が1ヶ月ガソリンスタンドでバイトして得る分の金額を稼げた。
高校卒業後、意味もなく現場で揉まれてきた訳ではない。
練習後に飯を食いに行くと俺が皆の会計を払う事が多かった。少しばかり年上だったのでそれが当たり前だと思っていた。
佐々木が俺の3つ下で太志郎が4つ下。
さん付けで呼ばれるからには俺が払わないと格好悪い。
そんな風にジムの練習仲間と俺の間には経済的格差があった。
当時リングスのファイターでもあった上山さんでさえ乗っているバイクは原付でジムの小部屋に住んでいるような状態だった。
同い年のプロファイターより俺の方がお金を持っている状況はちょっと変だと感じた。
俺はプロ格闘家であれば良いお金をもらって裕福な暮らしが出来て当然と思っていたのに。

そんな時に思ったのが「車を買いたいな」だった。俺は皆より金を持ってるし家には格闘技を見るためスカパーまで付けてサムライTVと契約していた。
あとは必要なのは車くらいだろう。

今になればおかしなマインドだったと思う。

前に乗っていたバンが遅くて嫌だったのでジョニーズにお願いしてガソリン車のホーミーワゴンを探してもらいそれを買った。
3000ccなので結構速い。
ちょっと貯めればキャッシュで買えるのに俺は再びローンを組んでしまった。
この判断でこの後一気に金が無くなり大変な目に遭うのだが、不思議と今でも車購入に対する後悔は無く、あるのはあの車に詰まった沢山の思い出だけだ。

この車がこの後、選手達を乗せて大活躍する事になるとは最初は全く思ってもいなかった。

大活躍したホーミーワゴン

磯崎さん

上のクラスに出るには最低Cクラスと言う水色のペナペナのTシャツになる必要が当時はあった。
上のクラスの時間は俺達は入れないのでウェイトルームでウェイトトレーニングしながら上級者達の練習を見学するしかない。
ある日のストライキングの日、上級を上山さんの仕切りで打撃のスパーが行われていた。
すると土曜のフリーの時間に俺をペチペチ殴ってくれた小武君がボッコボコにやられていた。
それを見てU-FILEには恵理也君以外にも打撃が強い人がいると知って驚いた。
その人は磯崎則理さん(現在U術アカデミー代表)と言った。

クラス前の早い時間にジムに来ると、磯崎さんは会社の車をジムの前に停めてタイロープを長く飛んでからシャドーやバッグをやって仕事に戻るのが印象的だった。
MAキックのプロの試合にも出場経験がありU-FILEに入ってから膝を怪我してしまい休養から練習復帰したばかりだった頃だと思う。

強いと思った人や極められた相手には頭を下げてよく話を聞いた。
磯崎さんには巻いたことのなかったバンテージの巻き方から習った。
極真でやってきた事と大きく違うし田村さんが教えてくれるものとも違い新鮮でとても楽しかった。
会員には打撃スパーをさせない田村さんと違って磯崎さんは割とガチンコ思考なのも当時の自分には合っていたと思う。
上級のクラスを窓の外から眺めているのは嫌だったので打撃と寝技の両方の昇級試験を早めに受けた。
太志朗と佐々木も受けたそうだったが金が無くてなかなか受けれなかった。
U-FILEには彼等より後に入会した俺だったが金があったので彼等よりも先に上のクラスに昇給した。
太志朗は俺の記憶では試験は受けて無いのに田村さんが「いいよ」と言って参加出来るようになった。
正直ずるいと思ったがこの頃から、やる気さえあれば田村さんは「いいよ」と言って初級クラスの人達を上のクラスに参加させるようになってしまった。
そしてクラス制度はほぼ廃止となりジム内は混沌としていくのであった。

キングダムエルガイツ

太志朗はプラプラと出稽古に行くのが好きだった。
聖蹟桜ヶ丘にキングダムエルガイツの道場があって入江さんと練習してきたと言う。
太志朗は入江さんにフロントチョークをやられて持ち上げれながら極められたそうだ。
高田延彦さん達がいた最初のキングダムは解散して入江秀忠さんと言う人がキングダムエルガイツと言う団体名で引き継いでいるのは雑誌を見て知っていた。
太志朗はそこで今度大会やるから出ないか?練習時に誘われたそうだ。

俺達如きが試合をするとか想像すらしていなかった。
ただこの頃の太志朗はやたらアグレッシブだった。ジムの許可が必要じゃないのか?と聞くとU-FILEとは名乗らずに非公式で出場すると言う。
俺は太志朗と一緒に水道橋にプラスチックの顔面カバーが付いたヘッドギアと安いオープンフィンガーグローブを買いに行った。

ジムに戻るとMMAをやった事が無いからどんなものかとりあえずやってみた。
酷い内容だったと思う。視界も狭く俺は喧嘩のようにパンチを乱れ打ちした。
太志郎も上を取ればガンガンパウンドを打ってきた。
練習後の太志郎はヘッドギアのプラスチック面を叩きまくって指の皮が剥けて血を流していた。
U-FILEの歴史の中で勝手にこんな事をやり始める奴等はいなかっただろう。
しかも太志朗は「田村部屋」と言うチーム名でエントリーしていた。

6.11キングダムエルカイツの試合の日、俺はセコンドで北沢タウンホールに行った。
この場所で修斗などのイベントが行われていた事は前から知っていたので練習仲間がここで試合をするなんて夢にも思っていなかった。

太志朗の試合はアマチュアで4人トーナメント。
リングでウォームアップをしているとロープ際でその様子を見ている坊主頭の人がいた。
それが将来、一緒に仕事をしたりする事になる今成正和との最初の出会いだった。
今成さんとは太志朗がエルガイツの道場に練習行った際にスパーしたそうで今成さんもトーナメントに反対ブロックにエントリーしていた。
「あの人足関めちゃ強いんですよ」と太志朗は言う。
ふ〜んといった感じで俺にはこの日何がどうなるかさっぱり解らなかった。

あまり記憶にないのだが太志朗は一回戦を難なく勝った。反対側からは今成さんが上がってきた。
こちらの打撃は警戒されてるようで今成さんは座ってジリジリと関節技を狙ってきていた。
思えばこの頃からこのようなスタイルだ。
互角の攻防の中で一瞬の隙に太志朗はアンクルを極められロープエスケープ。
そのポイントで敗北し準優勝に終わった。

メインでは入江さんとリングスにも出ていた木村浩一郎さんが試合するとパンフレットに書かれていた。
ちょっと楽しみにしていたのだが木村さんは来場せず、代わりの選手が現れそれを入江さんがボコボコにして極め、泣き顔みたいな顔をしながらマイクを持って木村さんへの不満を言っていた。
…と言うか何を言ってるのかよく聞き取れなかった。
正直、代替えの選手よりは俺の方が強いと思った。

この日の経験から俺もアマチュアに出たいと思うようになったのだが今後は田村部屋はヤバいから名前だけは変えよう言う話になった。
名前は俺が考えたのだけど“登戸デンジャラス”と言うチームを結成してアマチュアで活動しようと言う話に纏まった。
しかし数日後、田村さんは太志朗に試合の話をどうだったかと聞くともうキングダムエルガイツには出るなと言う。

試合は俺が組んでやるから勝手にあちこちにエントリーするなと言う話だった。
今となってみればごもっともな話ではあるが、この時はロゴまで考えていた登戸デンジャラスが日の目を浴びる事なく終わり寂しかった。

田村さんの俺が組んでやる発言からこの後俺達は格闘技界の渦に呑み込まれていくとは思ってもいなかった。

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