見出し画像

DEEP2002(前半)

2002年の年明け最初のオファーはパンクラスの2/27大阪大会だった。U-FILE3人が出場し上山さんと三崎和雄選手、大久保ちゃんと佐藤光留選手、俺の相手はパンクラスの宮川順也選手と言うネオブラ1回戦でKO負けした勝ち星のない選手だった。

まずこのオファーの内容が気に入らなかった。年末のDEEPもそうだったけどU-FILEをセット販売する時に上山さんを大将にするのは解るが、必ず自分が大久保ちゃんの下の3番手にさせられていた。
佐藤光留選手とだったら俺が再戦したいのに何で俺より弱い大久保ちゃんが中堅みたいになるのか?

試合の話を持ってきたのは木下さんだったので俺は思いの内を木下さんに伝えて断った。
木下さんは嫌でも試合を重ねて超えていかないと上の選手とはやれないと言う。
そもそもこの時期、俺は仕事と練習で体がボロボロになってきていた。
大してモチベーションも湧かない試合をいちいち仕事に穴を開けてまでしたいとは思わなかった。
自分が出なかったこの大会では大久保ちゃんは佐藤光留選手に判定で敗れ、上山さんも三崎選手に判定で敗れた。
Uと言うのは年功序列でポジションが決まり年齢は関係なく早く入った者が先輩となるそうだ。プロレス業界もそうなのか知らんが馬鹿げた話だと思った。
こちらは毎日現場で働き適当にバイトしている訳でもない。その中で強さを追求し妥協なく毎日練習している。強い奴が上にいって一般社会同様に年齢による最低限の礼儀があれば良いじゃないのか?
とある若手の1人が陰で「長南さんは上山さんのポジションを狙っている」と話していたそうだ。
はぁーとため息を吐きながら、その件を教えてくれた人間に「俺は上山さんどころか田村さんにも勝ちたいと思ってるよ」と伝えた。

夕月男

太志朗や佐々木が昼のプロ練に頻繁に出るようになってから、俺のメインの練習相手が居なくなってしまった。
松田恵理也君は腰が痛いと言ってあまり練習に来ないので、なかなか困った状態になってしまった。誰か練習相手がいないかな?とジムを見渡すと無口で体も細いけど毎日練習に来ている男がいた。
上はヘインズの無地の白いTシャツに下は黒いボロロボロで毛玉付きの短パン、確かこの頃はチャリは黒いママチャリで練習にくる際のバッグはただのビニール袋だった。毎日練習来ているし、ちょっと声をかけて誘ってみる事にした。
「中村君一緒にやらない?」
「えっ、あああ…はい」
これが中村大介との始まりだった。
太志朗や佐々木は試合も出ていたので俺と同じレベルで練習出来ていた。
しかしこの時期は森山君(ホワイト森山)、松田さん、中村大介、軽量級の小林悟郎達が俺の猛攻に必死に耐えるだけのような練習になっていた。
俺はパンクラスだのグラバカだのに負けたく無いと必死だった。
限られた練習メンバーと鬼気迫る勢いで練習する俺に対して周りは危険だと言っていたようだ。
練習をろくにしない選手志望などは自分達には近づく事は出来なかった。
レギュラー的に参加するメンバーはずいぶんと絞られていく中、中村大介はまだまだパワーも技術も何も無かったのだが何度叩きのめしても必ず練習に来るのであった。

写真は2003年6月のもの

3/16 STYLE-G

昨年末に話し合ったU-FILE独自の第一回大会を行うと言う事になった。場所は大田区体育館の分館で設営から自分達がやらなければいけないそうだ。この大会はグラップリングのトーナメントで軽量級と重量級に分かれて行うそうだ。
正直なところ勝ったところで何の特典もないこのイベントにやる気のある者などいなかった。

大会当日、上山さんに長南君のワゴンでジムから荷物を運んで欲しいと言われたので朝早くからジム前に車を回して積み込みに取りかかろうとした。
上山さんはジムのマットを俺の車に全部乗せて運ぶと言う。
大きく3つに別れるロールマットだが俺の車には一つですら乗らないサイズだった。
「上山さん無理ですよ」と伝えると上山さんは慌てて田村さんに電話するのだが朝早かったからか電話には出てもらえず、より一層焦るのだった。

開始時間も決まっているのだからレンタカーをとりあえず借りて後で代金を払って貰えば良いのでは?と言うと上山さんはより一層パニックになりながら自分では決められないと木下さんに相談していた。
埒が明かなそうなので木下さんとの電話は自分が代わって話すと木下さんは自分に任せるから進めて欲しいと言う。
レンタカー屋に行き2t車を借り運転は佐々木がする事になった。
車を待つ間にジムでマットを巻いていると遅れて田村さんが現れたので自分が現在の状況を説明すると返ってきた言葉は「早くやって」だった。
滅茶苦茶な話だと思った。

会場は今現在の綺麗な大田区体育館ではなく建て直し前の古い状態で、その隣の小さい別館にマットを敷き準備をした。
何に使うかも解らないけど撮影クルーもいた。
やる気の無い試合だったけど負けたくは無いのでアップして試合に備えた。
一回戦の相手は中村大介だった。いつも簡単に極めていたので簡単に極めようとしたら逆にポイントを取られてしまった。下からリバースをして極めにいったのだが防御が固く粘られ判定までいってしまった。
調子が悪いのか?とこの時は思っていたけど今になればそれが本番で強い中村大介の鱗片だった。
2回戦は大久保ちゃんが上がってきた。この大会で唯一モチベーションが上がるマッチアップだった。
何故か自分を3番手に置きたい田村さんと木下さんに目の前で現実の実力を見せてやろうと思った。
試合が始まると俺は勢いよく引き込み三角絞めで簡単に極めてみせた。
とてもくだらないプライドだったと思う。DEEPやパンクラスでは敵だらけなのだ。こんなところで仲間内で試合している場合では無い。

続く決勝では佐々木恭介が上がって来た。この日は朝から一緒に働いていた仲だ。
本戦が終わった。ポイントでは俺が勝っていた。
と思ったら佐々木の手が上げられた。
俺は主審をしている上山さんに猛抗議した。どう考えても勝っていたのだ。
手を上げられた佐々木ですら逆じゃ無いですか?と言っている。
上山さんは田村さんのいる本部席に行って話し合いをしている。
俺は「延長でもいいですよ」と本部に向かって叫んだ。
試合は延長戦で決着をつける事になった。延長開始後、佐々木の膝十字が俺の足を捕らえた。佐々木の十字は強烈なのでちゃんと入っていればタップしないと大怪我をする。
膝は深く入り過ぎて極まる感じではなかった。
しかし本部の田村さんは止めろ止めろと騒いでいる。
指でNONOとサインする俺に上山さんは動かないと止めるよと言う。佐々木は極まらぬ膝十字を粘っていた。
俺は膝十字を自力で脱出するとどんどんポジションを取って延長戦を制した。
誰よりも練習していたのが俺だからこうなるのは解っていた。ただそれを証明した日だった。

後日、上山さんに本戦の判定で佐々木が勝った事に疑問が残ったので直接聞いてみた。「田村さんがそう指示したんだよ。ごめんね」と言う。
田村さんが俺に勝って欲しく無いと思っているのは感じていた。
昼のプロ練習にも出ず、最初の基礎以外は独学で練習を重ね、田村さんが周りにバイオレンスだと言っている俺のスタイルは認めたくないのだろう。

3/30DEEP4th Impact

2月の試合のオファーを蹴った後にDEEPの本拠地、名古屋で行われるDEEP4回目大会のオファーを頂いていた。
こんなオファーが来るならパンクラスは断っておいて正解だった。
対戦相手は秋山賢二選手、空手の禅道会所属で当時はバーリトゥード空手と呼ばれ梁正基選手や所英男選手の所属するチームPODのボスである山本喧一さんをクラブファイトであと一歩のところまで追い込んだ事で有名になり、その後はパンクラスで逆転負けするも美濃輪育久選手を勝利寸前まで追い込んだりと業界では一時期一目置かれていた選手だった。
これはかなり燃えるマッチメイクだった。

が、同時期に秋山選手は 5月に行われる新イベント、プレミアムチャレンジに出場する事を決めていた。しかもメインで近藤有己選手と戦う事を発表していたのだから自分には難なく勝って当たり前と思っていたのであろう。
「絶対殺してやる」俺は試合前、紙にマジックで秋山賢ニ殺すと書いて部屋の壁に貼っておいた。

パンクラスで行われた美濃輪vs秋山は生で観ていた。
秋山選手は腰が重い感じで空手なのにスタンドの打撃は一切無かった。
自分とやる1試合前の1月のパンクラスでは石井大輔選手の一撃により1RでKOされていたので俺との試合が仕切り直しとなる。
柔道家やレスラーを相手するイメージで戦う必要があると思った。
試合前日に名古屋へ新幹線で移動。実は神奈川県より西に行くのは初めての経験だった。
計量後の会見では「倒します。それだけです」とマイクで言った。
4th Impact当日、佐々木恭介が自分より前の試合で一本勝ちをしていた。チーム的にも2連勝が欲しい。試合が始まると秋山選手はグイグイ押し込んできた。ちょっと粘ったがやはり腰は重いようでテイクダウンをされた。
山喧さんや美濃輪さんが上を取られるくらいだからそれは想定内だった。
ここからが俺の勝負だった。秋山選手は余所見をしてからいきなり顔面にパウンドを打ってくると言う攻撃法を多用していた。
余所見がフェイントのつもりらしいが余所見の瞬間に下からパンチを顔にぶち込んでやった。
慌ててパウンドを打ち返してくるのだが全て内側に手を入れてパウンドを防ぐと下から顔面に拳を打ち続けた。
それを何度か繰り返すとトップを取っているはずの秋山選手は八方塞がりの状態になり、こちらはノーダメージ。
1R終盤に三角締めの状態からの打撃を効かせたところパスをされるのだがブリッジでリバースに成功、今度はサイドポジションから体重をかけてパウンドを連打すると秋山選手は動かなくなりタップと同時にレフェリーは試合を止めた。
俺はコーナーに駆け上り「U-FILE舐めんな」と叫んだ。秋山選手はしばらく座り込んでいた。
https://youtu.be/5WMbmA3l2wI?si=tZ2Z1_6wAXnyua4a

これが俺の格闘技だと思った。田村さんは嫌いだろうけど下からの打撃は誰にも習わず自分で考えていた。レスラーや柔道出身者への対抗策となる。
組みのキャリアの差を独自のテクニックで埋める必要が俺にはあったのだ。
年始のパンクラス参戦の件で少し言い合いになった木下さんはとても喜んでくれた。
会場に来ていたプレミアムチャレンジ関係者までが「凄いですね」と言い、秋山選手はダメージの為にプレミアムチャレンジは欠場となった。

反対に俺は6月に開催されると言うDEEPミドル級トーナメントへの出場権を手に入れた。

写真が無いので動画をスクショ

さらば愛しき我が青春

仕事と格闘技をどっぷり続ける毎日だった。
タイムスケジュールを紹介すると
朝は6:00ぐらいに起床。そこから会社に行くか住んでるマンション前でバンで拾ってもらい現場まで。
8:00から仕事、10:00休憩30分、12:00昼食休憩1時間、15:00休憩30分、18:00ぐらいにが現場終了も早かったり結構遅くなる事も。
19:00くらい帰宅、シャワー浴をびて洗濯物を回してU-FILEへ(徒歩4分)到着次第練習開始
22:00練習終了、ジムの掃除をして帰宅後、洗濯物を干して晩飯、雑用
24:00就寝 が、O井さんや同僚と飲みに行くと午前2時、3時に就寝する事もしばしば。
どんなに遅くても朝は早く火〜土までこの生活。月曜日はジムが休館で仕事のみ。
日曜は仕事が休みで午後から半日ジムで練習。

こんな生活を毎日送っていた。
この生活スタイルを今の若い選手達に話すと驚かれる。
自分で振り返っても、もう少し休みを取った方が良いのでは?と今になれば思うのだが、この時は誰に頼まれたりしている訳でも無いのに全く止まれなかった。

しかし気持ちとは反対に身体は悲鳴を上げていた。格闘技を始めた事により本業にもだいぶ穴を開けるようになってしまっていた。
怪我をする度に仕事を休んだし、試合があれば計量の日から休まなければいけない。
右の拳を怪我してハンマーが握れなかったり休んだりと、日給、月給制なので何かある度に収入に響く事になる。
そんな二足の草鞋を履く俺に会社の親方は「あいつはどちらかに専念しないと潰れてしまうぞ」と言っていたそうだ。
全く以って親方の言っている事が正しいのだが俺は格闘技に対して中毒症状を発生させていた。

グレーゾーン金利時代と言って消費者金融の金利は最大28%となっていた。最初に借りたプロミスに加えアコムからも借り毎月2つのカードの返済の為に府中街道沿いのATMを梯子していた。
金がいくら無くても後輩達と飯を食いに行けばノリなのか見栄なのか会計は俺が出す事が多かった。
格闘技に夢中になっているとかつては命の次に大事で俺の財産でもあるGSX-Rに乗る事は少なくなっていた。
一度だけ佐々木恭介が練習後に父親と新宿で会う予定があるけど時間的に間に合わないと言うので佐々木に半ヘルを被せて世田谷通りを大爆走した事があった。
腕はなかなか落ちていなかったようで登戸のジムから新宿駅南口まで小田急線急行と並ぶ20分で着く事が出来た。
その時、佐々木は無料で富士急ハイランドに行ったような体験が出来たであろう。
年式的には6年も経っていたが足立区で変なバイク屋に当たって乗っていない期間があったりで走行距離はそれほど伸びていなかった。
生活の中で乗る暇もなく、時間は経っていくので少しでもお金になればと売却を決意した。
とりあえずバイクのカバー越しにかけられた“バイク高価買取”のチラシのところに電話をしたのだが全く話にならない金額を言ってくる。
仕方無く買ったジョニーズのヒデカズさんに電話をすると買取相手を探してくれると言ってくれた。

GW前に直接山形まで運転してバイクを運ぶ事にした。
GSX-Rとのラストランだ。
それなりに飛ばしてはいたものの昔みたいな無茶はやらなくなっていた。
天気は快晴、バンソンのスターを着てレッドウィングにアーミーパンツ、名残惜しさも感じながらジョニーズのある山形県酒田市に向かった。
東北自動車道から山形道に入ったくらいでガソリンが無くなり次の給油ポイントまで持たないような状態になってしまった。
仕方無く一旦下道に降りてガソリンを詰めて寒河江辺りから月山を目指した時の事。

2車線の広い国道を直進すると見通しの良い交差点に差しかかった。交差点には対向車に軽トラが止まっていて右折しようとしている。
バイクの右直事故は何度も周りが経験して危険な目に遭っていたから注意を払って減速した。
こちらに気付いたのか曲がろうとしていた軽トラがブレーキをかけて止まったのでそれを確認して真っ直ぐに進んだ。
しかしその軽トラは自分が交差点に入って近づいた瞬間に再び進み始めるのだった。
「嘘ぉ〜」避けようとハンドルを切るも間に合わず軽トラの右側にヒットしバイクは歩道の方に向かっていった。
俺は前方のアスファルトに受け身を取りながら転がった。

慌てて起き上がりバイクに向かって駆け寄るとブルメタに塗られた GSX-Rのカウルは粉々に割れて縁石に当たったフロントフォークは2本共千切れていた。
幸い俺はそんなにダメージがなかったのだが、ヘルメットを脱いで右側の凹んだ軽トラに近づくと驚いた。
中から出てきた老人は80歳以上ぐらいには見え、腰ががっくり曲がり小さく、車を運転出来ていることに驚くような身なりだった。
「いきなり曲がってきちゃ駄目だよ」と言うと「すみません」と言ってくるのだが耳も少し遠いようだった。
怒っても仕方ないので警察の到着を待った。
事故処理車が到着して警察官による現場確認と状況の聴取、自分にどこか怪我がないか聞いてくるので少し肘が痛いと破れた革ジャン越しに肘を見せた。
警察官が「これは駄目だ」と言い即救急車を呼んでくれた。
肘はパックリ割れて骨が見えていたのだった。この場所から地元の鶴岡までは車で1時間以上の距離だ。
俺は幼馴染のトモちゃんに助けを求めてから生まれて初めての救急車に乗った。
肘を縫っている間、トモちゃんは3中の3つ下の後輩のチビマサとプレジデントで病院まで迎えに来てくれた。
事故に関しては警察官にお爺さんが注意される形となり後日、鶴岡市の実家に滞在中に息子さんが謝りに来た。
バイクはジョニーズのヒデカズさんが運んでくれたのだがあちこち壊れて廃車となった。
あとは保険屋さんとの話し合いとなりバイクの購入金額や走行距離からの査定、着ていた衣服や怪我をした休業補償もあり多少はまとまったお金が入るようになった。
それは不幸中の幸いだった。

GWが終わってからも保険の話し合いや病院に行ったりとあちこち打撲もあり肘は縫ったままだったので自宅に残った。
これはDEEPミドル級トーナメントに向けて良くない状況だと思った。
しかしバイクの件でお金が入る事を見通しての秘策が俺にはあるのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?