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2000年の過ごし方後編

相変わらず仕事は休まず(雨天、日曜は休み)練習は月曜以外に毎日参加。
過酷ではあったけど毎日が楽しくて仕方なかった。
練習に行く事が辛いとは全く思わなかったけど、困った事にこの頃はコンビニで小銭を払おうとすると指先が思うように動かせない状態になっていた。
前腕と手首を酷使し過ぎているようだった。

ウェイトトレーニングをやらなくても型枠やパイプをガンガン振り回していたので組技では腕力で負ける事はなかったのだがU-FILEにあるウェイト設備でベンチだのやってもこの頃は人並み程度しか上げれなかったりする。
逆にウェイトトレーニングをガンガン上げれても現場仕事では役に立たないだろう。
元々病院嫌いだったので体の治療やメンテナンスをすると言う選択肢は俺にはなかった。
自分のフィジカルのベースは型枠大工で作られていた。

バトルジェネシス

太志朗には田村さんからリングスの後楽園大会の4人制トーナメントに出場しないかと声がかかった。
「はい」と即答する太志朗。
俺が中学3年の頃に旗揚げしてから、ずっと見てきたリングス。
高校の時は学校をサボって仙台まで行って前田日明vsハンス・ナイマン、佐竹雅昭vsウィリー・ピータース戦(イベント名:獅子吼)を見て、前田さんの引退試合では30000円くらいの席を買って横浜アリーナまで観に行き、田村さんとヘンゾが1回戦に行われたKOKメガバトルトーナメントにはU-FILEの会員としてジムでチケットを買い観に行くくらい好きで故にU-FILEを選んだと言う経緯もある。

そんなファンで見上げていた舞台に練習仲間が出るのか?と思うとなんだか凄い話になってきたと思った。
お前は?と言われても確かにU-FILEの中では既に強い方にはなっていたけどプロ格闘技と言う舞台のリスペクトが多過ぎて俺如きが出たいとか言っちゃいけないんだろうなと、勢いよく練習していた割にはそんな気持ちで試合には出たいとは思えなかった。
そもそも総合を始めてまだ半年足らずで試合とか有り得ないと思った。

そんな俺とは違って当時の太志朗は勢いがあって一緒に沢山練習もしていたのでやってくれるだろうし彼の力になりたいと思った。
彼のリングスデビューは9/5に行われる後楽園大会となったのだ。

夏の鶴岡

8月の盆には田舎に帰省した。年初めに入会したから半年以上毎日格闘技は続けていた。
田舎に帰っても高校の時のように小真木原運動公園の外周を走り手と足に重りを付けてシャドーを毎日やった。
昔のように体育館のトレーニングルームに行ってウェイトトレーニングもしたのだがフリーウェイトの本格的な器具が揃っていたU-FILEと違い小真木原のトレーニングルームはほとんどがマシーンで重さは最低限の重量で揃えられている。
中学生の頃はこれが最新式で、それをベーサトと大した重さでもないのに重い重いと競い合っていた。
試しにベンチのマシーンをやってみると割と簡単に全部の重りが上がった。
当たり前のことだが俺は成長しているのだと昔を思い実感した。

夜の鶴岡の街はずいぶんと荒れていた。
と言うか今では考えられないくらい暴力が溢れて性の乱れも酷いものだった。
後輩達は湯野浜の海岸通りで他県ナンバーの車と争っていた。
暴排法もなかったから普通の居酒屋でヤ○ザ屋さんも飲んで威張っていたし、昭和通りは飲んでいるだけで絡まれる街で絡んでいる奴が身内だったりもするからタチが悪かった。

夜中の湯野浜でユタに腕十字


仕事も格闘技もちゃんとやっているし車もあるから彼女が欲しいかな?と思ったのだけど実家の俺ら世代の惨状を見ると見て見なかった事にしようと思いそう言う部分では都会に目を向けた。
そんな田舎も好きだったけど今思えば皆バカだったなと思う。
しかし昼間に運動公園を沢山走って夜は仲間と飲んでパワーチャージが出来たので心機一転、再び気合を入れて仕事と格闘技をする為に登戸に戻った。
太志朗はリングスデビューに向けて追い込んでいた。

後楽園ホール

格闘技ファンなら誰でも知っている聖地、後楽園ホール。
俺はU-FILEに入る前年3月に修斗をチケットを買って観に行った事があった。
コアな格闘技ファンなら知っている伝説の五味隆典vs桑原卓也の一戦があったあの大会だ。それから一年ちょっとでセコンドの為にこの場所来るとは当時は思ってもいなかった。

控室には1番乗りくらいで入っただろうか?いつも一緒に練習している佐々木恭介も一緒だった。
キングダムエルガイツの時のように試合に備えて控室の中にいたら上山さんが来て選手以外は外で立っているように言われた。
U-FILEのTシャツを着た我々は控室前に直立したまま通り過ぎる関係者達に挨拶を続けた。
まるで内弟子のようだが俺達はただの会費払っている一般会員だ。
選手の皆さんはほぼほぼ無視して去っていく中、リングスの若手で坊主頭だった伊藤博之君と横井博孝君だけが笑顔で挨拶をしてくれた。

すると前田日明さんが目の前を通ったので佐々木と大きな声で挨拶をするも、やっぱり無視して去って行くかと見せかけて戻ってきて自分達のTシャツを見て「お前ら田村んところの奴か?」と聞いてきた。
緊張しながら「はい」と答えると「中に今日試合する奴いるのか?」と続けて聞いてくる。
「はい。います」と答えると前田さんはドアを開け中の太志朗に「頑張れよ」と声をかけ去っていった。
太志朗凄えなと思いながらも俺も偉く大変なところに居てしまってると改めて思わされる。

太志朗のトーナメント1回戦は判定で難無く勝ったのだが反対側のブロックで勝ち上がって来たのが太志朗よりも若く一回戦をパンチのラッシュで圧倒してTKOで終わらせていた。

その男は当時まだ18歳で小谷直之と言った。

決勝戦、あのパンチには気をつけようと言う話をして試合に挑んだ。
しかし組んでも簡単に投げられ腕十字で秒殺されて太志朗は敗れた。
バックステージで太志朗は大泣きしていた。太志朗に俺はこう言った。
「今日のあの相手がお前にやった事は俺達も出来ないし俺達が戦っても負けただろう。今日は皆の敗北だからまた皆で頑張ろう」
太志朗が覚えているかは解らないが俺は敗北した選手に初めて本音で声をかけたのがこの日だった。
ちなみにこの大会で後の皇帝ヒョードルは12秒KOで日本デビューを果たしている。
ただの型枠大工にはとてつもなく刺激的な日となった。

TATOO

それからは一層気合を入れて練習した。
ただ今の弟子達と違い教えてくれる人があまりいなかった。
田村さんは基本的な事は教えてくれたがこの頃、日本格闘技界を侵略していた柔術的なテクニックはほとんど知らなかった。
当時は技術動画をスマホで探せるような時代じゃなかったので俺は雑誌の技術ページで学んでジムで試し、修斗の軽量級の試合を見て独学で技術を身につけようとした。
ヒップスローもオモプラッタもU-FILEでは俺が一番最初に使っていた。

型枠大工の給料日後は金のない皆を連れて練習後に飯を食いにいったり、そのまま時間制のキャバクラに連れて行ってワイワイ騒いだりを始めたのもこの頃だった。
ジムの若い奴らは今となっては結婚して落ち着いているのだが当時は格闘技やプロレス好きのオタクっぽいのが多く、女性と話せないようなのが多かった。
男とベタベタ戯れているだけの奴らを見ていて不健康に感じたのだった。

朝まで飲んで騒いでも俺は早朝に現場に行って働いていた。周りの皆はそれをとても驚いていた。

夏に帰省した際に同級生や後輩達がタトゥーを入れ始めてた。
よく知っている後輩のRがマシーンを買い、周りの友人達に掘りまくっているのだった。
洋楽のメタルやらハードコアが好きだった俺は高校の時からタトゥーを入れたいと思っていた。
しかしわざわざ彫りに行くにはきっかけがなかったし寮に閉じ籠って働いてばかりいた時の俺にはそのマインドにはならなかった。

友人達を見て今がその時と思いRには正月帰るから彫ってくれと予約をした。
最初はベタにトライバルを頼んだ。
友人達は龍だの鳳凰だのライオンだの大きく彫っていた。
中には足に2Pacを彫ってもらった男もいたが残念ながらそれは似ていなかった。

更に同い年のKと言う男もタトゥーのマシーンを買い後輩達に彫りまくっていた。
そいつには絵心が皆無で被害者が続出していたにも関わらず金までしっかりと取っていたのだった。
ちなみにKは自分の体は有名な彫り師に彫ってもらい自分の体に彫って練習するような事はしていなかったと思う。

帰郷するとRは俺の為に書いたと言う2つのトライバルの絵を見せてくれた。
正直言うとどっちの絵も嫌いだった。
しかし俺の為にRは一生懸命にデザインしてくれようだった。
どっちかと言えばこっちかな?と言う方を選び彫ってもらう事にした。
一生残るものを彫る割には適当に決めてしまった。
更にRは腕に下書きをボールペンで描き始めた。多少なりとTATOOの本で見た事があったので「ちょっとやり方違うんじゃね?」と言うとRは自信満々に「俺はこのスタイルです」と言った。
俺は「おっおう」と腕に下書きをボールペンで描かれながら答えていた。
時は21世紀を迎えようとしていた。

最初に彫ってくれたR君と

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