マガジンのカバー画像

ピラニアとよばれた男

38
総合格闘家、長南亮の半生を忘れないうちに振り返ってみる。 どのように格闘技と出会いそれを生業としたのか? 今格闘技を始めようと思っている人、始めたい人、始めたばかりの人、興味の… もっと読む
運営しているクリエイター

記事一覧

再び戦いの場へ

再び戦いの場へ

2003年3月の中旬、山形の雪が減ってきた頃、忙しいU野組の仕事もひと段落してきた。
親方には再び関東に戻る事を伝えた。
愛車のホーミーワゴン(FR)は雪道を飛ばしまくって農道でスピンして何にも接触せずに助かったもののバックした際に雪で埋まったガードレールにぶつかりテールレンズが割れてゲートも凹んでしまった。
ホーミーは売却して関東に戻ろうと思っていたので査定額が下がってしまい残念だが大雪の庄内で

もっとみる
過酷な冬

過酷な冬

フィルター切りの男

2002年の年末、俺は故郷の山形県鶴岡市に帰った。
足が痛くて肉体労働は出来ないのだけど近所で住宅設備の会社を経営していたトモちゃんのところ(実家から約100m)で販売している換気扇の交換用フィルターを規定のサイズに切断する仕事があると言うのでその会社でひたすらフィルターを切って小銭を稼いでいた。
トモちゃんの会社は今でこそ立派な法人会社になって関東でも仕事をこなしているよう

もっとみる
DEEP2002完結編

DEEP2002完結編

2002年の秋頃、見知らぬ電話番号から電話が鳴ればほぼカードの支払い請求の連絡だった。
俺が借りていた消費者金融のカードローンは2社で合計160万くらいになっていて給料日に30,000円ほど返済しても元金は3000円くらいでグレーゾーン金利時代の最大金利28%をモロに食らっていた。
デビューからずっとギャラを払ってもらえず怪我や試合で仕事を休むと日当は貰えない状態で、憧れていたプロ選手とはこんなも

もっとみる
DEEP2002(中盤)

DEEP2002(中盤)

出稽古

GWが終わり1週間ぐらいで川崎に戻った。
事故のダメージも回復して縫った肘も抜糸してもらった。
試合前だと言うのに2週間近くバイクの事故のおかげで練習を出来なくなったのだが、事故の保険でバイク一式や休業補償の分など、まとまったお金が入る事になり、普通であれば焦るはずが自分にとっては仕事を休む口実も出来てラッキーな結果となった。
間違っても相手や保険屋さんに過大請求などはせず、走行距離、使

もっとみる
DEEP2002(前半)

DEEP2002(前半)

2002年の年明け最初のオファーはパンクラスの2/27大阪大会だった。U-FILE3人が出場し上山さんと三崎和雄選手、大久保ちゃんと佐藤光留選手、俺の相手はパンクラスの宮川順也選手と言うネオブラ1回戦でKO負けした勝ち星のない選手だった。

まずこのオファーの内容が気に入らなかった。年末のDEEPもそうだったけどU-FILEをセット販売する時に上山さんを大将にするのは解るが、必ず自分が大久保ちゃん

もっとみる
U-FILEスタイル

U-FILEスタイル

インストラクター

DEEPのフューチャーファイトを終えた辺りに、練習後に田村さんとストライキングコーチの磯崎さんに、選手数名がジムに残るように言われた。
磯崎さんが説明をしてくれたのだが内容はこれからは日替わりで選手達がジムの指導をするようにして欲しい言う話で、条件として今後の月会費は要らないけど、これからの試合のマネージメント料はジム側が30%取ると言う事だった。

また今後はU-FILEが独

もっとみる
DEEPへ

DEEPへ

自分が参加したネオブラッド予選はとても刺激的だった。
自分に足りない物が何なのかを肌で感じて解ったし打撃であればだいたい勝てるような感覚も解った。
当時のJMMAの打撃のレベルはびっくりするくらい低かった。
基本的に強い選手と言うのは柔道かレスリング経験者で上を取って勝つと言う選手が多かった。

U-FILEは自分が入会する前には大江慎さんが打撃を教えていたので、大江さんが辞めた後もキックボクシン

もっとみる
プロデビュー戦

プロデビュー戦

プロデビューが決まってからは土日にMMAの練習を増やした。
アマチュアコンテンダーズに続き太志朗も一緒に出ることになった。
試合の契約体重も何キロとか決まってはいなかったと記憶しているが自分の体重を申告して、経歴や体重からマッチメイクされるようだった。

契約書と言うものは見ていない。
上山さんにはギャラは1万円と伝えられた。
俺が型枠大工で日当17000円ほど貰っていた頃だ。
正直ギャラとかどう

もっとみる
プロ格闘家…?

プロ格闘家…?

大久保ちゃん

太志朗がデビューすると今度は大久保ちゃん(大久保一樹)がリングスでデビューすると言う話になっていた。
大久保ちゃんは自分よりも年下だけど一年くらいU-FILEでは先輩で、大人しいけど変わった男だった。
ウェイトをしっかりやるタイプで、体格的には、がっちりしているのだが正直強いかと言われると当時の自分から見ても、そうでもなかった。
大久保ちゃんは田村さんのお墨付きで出定が決まったのだ

もっとみる
2000年の過ごし方後編

2000年の過ごし方後編

相変わらず仕事は休まず(雨天、日曜は休み)練習は月曜以外に毎日参加。
過酷ではあったけど毎日が楽しくて仕方なかった。
練習に行く事が辛いとは全く思わなかったけど、困った事にこの頃はコンビニで小銭を払おうとすると指先が思うように動かせない状態になっていた。
前腕と手首を酷使し過ぎているようだった。

ウェイトトレーニングをやらなくても型枠やパイプをガンガン振り回していたので組技では腕力で負ける事はな

もっとみる
2000年の過ごし方

2000年の過ごし方

仕事が早く終わってジムにオープンぐらいの時間に行って打撃の練習をしていると田村さんに声をかけられた。
「長君キック出てみない?」
「えっ?」って言う感じで意味が解らなかった。
「自分は総合をしたいです」と言うと田村さんは「総合はレスリングあるから難しいよ」と言う。
そもそも総合やりたくてここにいるのに…
あまり興味のなさそうな俺に田村さんは「キック向いてると思うなぁ〜」と寂しそうに語って去って行っ

もっとみる
充実した日々

充実した日々

U-FILE CAMP

仕事を終えて帰ると急いでシャワーを浴びて練習着に着替える。
作業着は洗濯機で回しておく。
現場さえ近ければ19時のクラスにはギリギリ間に合った。
初めて出たのはストライキングクラス。当時はジムが溢れるくらいの参加人数だった。

俺はプロ選手を目指している訳ではない。
ただ長年の格闘技ファンで、リングスが大好きで腕っ節に自信はあるけど圧倒的な敗北を味わいたくてここにいる。

もっとみる
新たな決意

新たな決意

考える時間

実家に戻るとGSX-Rは祖母の家の車庫にしまった。※見出しの写真はこの半年後に復活したGSX-Rと従兄弟の息子の3兄弟と。

最初のD建設を辞めた時以上に喪失感はあったけど連絡の取れなくなっていた俺に対して周りの皆が優しくて嬉しかった。

思えば半年以上ちゃんと笑っていなかったな。

このまま鶴岡で仕事を探して住んだ方が楽しいし幸せになれるのではないか?
俺は22歳になっていた。

もっとみる
人生終了

人生終了

プロレス好きのTさん

K工務店ではただただ働く日々だった。
相棒のGSX-Rは動かないままで俺には働く事以外に何もなかった。
仕事が終わっても部屋に現場の図面を持ち帰っては睨めっこしながら電卓を叩き理解しようと勉強した。

最初はキャリアのある職人さん達のスピードに付いていけず悔しい思いをしたけれど場数を踏めばそれなりのスピードで仕事が出来るようになってきた。今と違って酒もそんなに飲まなかった。

もっとみる