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あたらしいせかい。

 いつの間にか世界というのは、普通ではなくなっていた。
普通ではなくなっていた、というのはつまりこれまで常識だと思っていたことが非常識にすり替わっている世界のことだ。

いつの間にか。

それは、ゆっくりとしていて、そして計画的な侵略の歴史だった。


藤田昌幸はどこにでもいる大学生だ。
特にこれといって今のところ取り柄があるわけでもなければ、
何かに秀でているということもない。ということは何かが欠落しているわけでもない。どこにでもいる大学生だ。

藤田は数日前にキャンパスに貼り出された掲示を見た。

「男女平等な運動能力を開発する研究について。」

という張り紙は、掲示板の片隅にひっそりとたたずんでいた。
あまりその張り紙に興味を持ったものはいないようだったが、藤田はなぜかそれに惹かれた。

「・・・・というわけで、今後ますます発展していくであろう男女平等、男女均等の世界に対応すべく研究を重ねています。被験者になっていただける方があったらご連絡をお待ちしています。」

と結ばれた掲示物には、連絡先が記されてあった。

「ふ〜ん・・・。」

何気なく、本当に何気なく、藤田はその番号をメモに残しておいた。
まだ冬というにはいくらか気が早い晩秋のぽかんとした空がそれを遠く眺めていた。

一人暮らしのアパートに帰ると、藤田はなんとなく張り紙のことを思い出した。幾らか前から、ポリティカル・コレクトネスが進んで身の回りから性差による区別というのは取り払われて行った。
ほとんどアレルギーと言ってもいいほどにその差は歴然と消失していった。
違和感や嫌悪感を懐く人間も少なくはなかったが、端に追いやられていくようにして勢いに飲まれていった。いつの間にか古き良き日本は失われ、グローバル化が進んだ人間味のない世界がこの日本でも常態化していったのは藤田にも理解できていた。

振り返れば、この味気ない社会を見渡して「果たしてこの社会で幸福度をあげることができた人間がどれほどいるのだろう。」と、そう感じざるを得ない。しかし存外に藤田はその違和感にも適応を始めていた。

「こんな僕でも社会に何か貢献できることがあるならば、してみたい。」

と、そんな単純で無垢な好奇心のまま、藤田はあの掲示物に記されていた連絡先に電話を入れた。


翌日、藤田は全ての講義が終わった後、電話口にて告げられた研究室へ足を向けた。どこにでもある私立の大学ではあるがまだ2年である藤田が足を踏み入れたことのない領域というのは多い。

用事がなければ訪れないだろうな。
と、そんなふうに思いながら藤田は大きなドーム型の建物に併設された研究室を認めた。

扉を開けると、そこには二人の白衣を着た女の人がいた。
一人はポストドクターだろうか、藤田よりも少しは年が上の女性。
そしてもう一人は学生だろう。

「あの・・・、昨夜お電話しました、藤田と申します・・・。」

おずおずとそういうと、ポストドクターとみられる女性が顔を華やかに綻ばせて「あらあら、初めまして。初瀬結衣と申します。博士研究員です。」と、自己紹介をしてくれた。

「あ、どうも。藤田昌幸です。」
その綺麗な顔立ち、とどこか高飛車でありながら優しげな口調に絆されて藤田はつい小さな声になりながらそう自己紹介を繰り返した。

「こちらは学生で研究のお手伝いをしてくれている河野日菜さん。」

そう紹介された学生は藤田と目も合わせずにペコリと軽く会釈をした。髪の毛を後ろで一つに括っていて、化粧っ気のない顔はともすれば地味だがそのメガネの向こうの目鼻立ちはくっきりとしていて、何もせずとも美人であることは一目瞭然だった。

「ここでは、あの張り紙にあった通り男女平等な運動能力の開発を研究してるの。藤田くんの勇気ある立候補に感謝するわ。」初瀬結衣がどこか見下したような視線を藤田に送りつつそう謝辞を述べた。

「じゃあ、早速始めようか。」

初瀬はそう言いながら、藤田を椅子に座らせて血圧を測り、体温を測った。

「特に体調が悪いとかはない?」

そう尋ねられると、藤田は「はい、特に何もないです。」と返事をした。

「そう、じゃ、注射するね。」

いきなり目の前に現れた注射器に藤田はいささか驚いた。

「え、、それはなんの・・・?」

「ふふふ、これは男女平等な運動能力を獲得するための薬品。少し痛覚が鈍感になる健康に害のない薬よ。」

初瀬結衣はそういうとにっこりと笑い、消毒液を含ませた脱脂綿を藤田の腕の内側に滑らせた。

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