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サーチライト

十七の幼い君を抱きしめる



今年の5月の頭、私は死のうと決めた。

さまざまな要因が重なって。不安や焦りに急き立てられ、プレッシャーにより急激なストレスに晒されたこと、職場環境や人間関係の大きな変化、私が正しいと思ってとった行動に対して家族から否定を受けたこと、私が人生を通してずっと抱えていた心の傷の痛みに、その人のために抱えていたのに、本人に理解されなかったと感じたこと、etc.

その少し前に、韓流アイドルの自死のニュースを見た。
「あんなに素晴らしい人で、活動も頑張っていたし、軌道に乗っていたのにどうして」
ファンたちの呟きを見て、こんなにみんなから愛されてる人でも、死ななきゃ内側の苦しみに興味を持ってもらえないんだな、と感じた。死んでやっと、そこにスポットライトが当たるのだ。

また、普通のはずの女子高生たちが二人で飛び降りをした動画がネットを騒がせた。私は動画は開かなかったが、それを見た人々の言及で十分すぎるほどに想像してしまった。

私も高校の頃、どこか高いところから飛び降りてしまいたかった。
屋上からグラウンドの地面を見下ろして。体を折って頭を下げていたから血が上っていたのかもしれないが、砂の模様がぐにゃぐにゃと蠢いていた映像を覚えている。
急激なストレスがかかった時には、早足で街を歩き回り、とにかく高いところを探した記憶もある(絶対に失敗したくないので十分な高さの建物を探していた)。

結局私は実行しなかったが。
その二人は、地面から足を離してしまって重力に囚われてしまったんだな、と思った。

私がすんでのところで思いとどまっていたのは、足を離した後、自然落下している最中に、ものすごい後悔が押し寄せるだろう、と予想していたからだ。しかしその時にはもう上へ戻れないのである。物理的に。
側から目撃するならば、おそらくあっという間に地面に着くだろう。でも、その間の自分の後悔は、恐ろしく長い時間に感じられるだろう、と想像していたから、怖くてとてもそんなことはできなかった。

でもその呟きたちを見た夜の寝入り端、私は自分が落ちていくイメージを見てしまった。そして、地面でただの物体になってしまった自分を、上から眺める経験もした。金縛りのような状態になっていたのか、体が動かず、顔の表情筋もぐちゃぐちゃに掻き回されてるような感覚があって。
その日から私は眠れなくなった。

元の話に戻る。
死ぬと決めても、どんなに気分が暗くても、人との約束は守りたいと思う質で。
というか、そういう時こそ人と会って話さないと本当に死ぬ、という考えを持っているので。
お世話になっていた絵の先生(途中で主宰の画塾に採用してくださったので職場のボスでもあった)のイラスト教室に顔を出した。

最初はいつも通り、みんなと喋って笑って過ごしていたのだけど。
絵を描いているときに、とても楽しいなと感じて。

もっといろんなことがしたかった。
もっと人生を楽しんでいたかった。
私の人生を謳歌したかった。

そんな思いが頭の中を駆け巡り始めると、とても哀しくなってきて。
人前で泣くのは嫌いなのだが、涙は出さなくても、鼻水が止められなくて。
異様さを、その場の人たちに悟られてしまった。

そして白状してしまった。
「死にたくないんです」と。
死のうと決めて、でも、死にたくなくて、私は泣いていたのだ。

もちろんそんなの精神的に相当やばい人の、裏返しの言葉だってみんな思うから、ボスにもすごく心配されて、車で家まで送ってくれて、その間ずっと「死んだらあかんで!!」とか「あなたのことが好きな生徒たちどうするん!!」とかずっと言われていた。

私は当時、「いつまでも楽しそうに生きてるからダメなんだ、だからみんな私の苦しみを分かろうともしてくれないんだ」と思っていた。

そもそも子どもの頃は自分で「長所は明るいところです」と書くくらいだったのだが、その後の厳しい学生生活を経てうつになり、びっくりするほど陰鬱な性格の人間になってしまった。それでも死なずに踏ん張って、生きるために獲得した前向きさで、近年はたくさんの人に可愛がられるようになっていた。

でも一方で、思慮の浅い人間たちには「薄っぺらい人生」とか「人生舐めてる」なんて心無い言葉も浴びていた。

なんで、他人の人生の苦しみにも思い至れないような想像力のない、救いようのないほど頭の悪い人間にここまで馬鹿にされなきゃいけないんだろう。

私は辛い時期を乗り越えてこの年齢まで生きてきたこと自体に誇りを感じていた。
そりゃ自慢できるような経歴も立派なステータスもないよ。生きることだけで必死だったから。でも、上っ面しか見れない人間に、それまでの人生全部と私の唯一の誇りを蹂躙されていたのだ。
そしてそれは私がいつでも前向きに、笑顔で、生きようとしていたからではないのか、と思ったのだ。

「世の中はそんな風に笑っていられるほど甘くない」と彼らは言いたかったのかもしれない。
実際、深刻な顔で辛い、苦しい、と訴える人の方が甘やかしてもらえる。そういうところをたくさん見てきたし、私自身もそういう人に手を差し伸べたことがある。私が構ってしまったそいつは本当にただのメンヘラかまってちゃんで、私は自分の時間と精神を削ってケアしていたのに最後にめちゃくちゃ傷つけられて捨てられたのだけど。

そして、先述の韓流アイドルの件。死んで初めて「死ぬほど辛かったんだね」と同情してもらえるのだ、ということも学んでしまった。

私がいつまでもヘラヘラ生きてるから誰もわかってくれないんだ。
そもそも私の話は誰にも伝わらないし。
でも、他の人が話すと何故かみんなに伝わるから。
「そうだ、語り部になってもらおう」と閃いた。
私が死ぬことで、近年私を可愛がってくれていた人たちは衝撃を受けるだろう。
それは申し訳ないけれど、でも、彼らに私の辛かった人生を、伝えてほしい、私の代わりに、と思ったのである。

それをボスに伝えると「そんな役私は絶対せんからな!!」って言われたけど。
「死んだらマジで怒るしなんも言わんで私は!!」って言われながら家に送ってもらった。

次の日くらいだったと思う、私はまた人との約束を果たすため待ち合わせ場所に10分前に訪れた(待ち合わせの時はいつも10分前には到着する、というのが私の中のルールである)。
その人は出会ってすぐに私の異常に気づいて、元々の予定を変更して一緒にカラオケをしてくれた。私が一人の時間を過ごさないように、9時間くらい一緒にいてくれた。

高校時代、一人でカラオケボックスに篭って、「自分のことをわかってくれてる」と感じる楽曲をずっと歌っていた。
いつか誰かの前で歌えるといいな、と思いながら、そんな機会はなかった。
友人とカラオケに行くことはのちにあっても、絶対人前で歌えるような歌ではないからだ。
でもその日は初めて歌った。やっぱり私のことをわかってくれる歌だったし、一緒にいてくれた人もわかってくれた、と感じた。

その日の私は透明に見えた、とその人は言った。
もう一人、透明になっている人を見たことあるけど、どこかに行ってしまった、と。
透明というのは綺麗でいいことだと思っていたけれど、今思うと、この世から消えかかってたってことだったのかもしれない、と。

その人の優しさでなんとかまた生き延びることができた。こんなに寄り添ってくれる方は普通はいないので、本当に感謝だ。

まぁ新たな地獄が始まっただけだったけれど。私にとっては生きることはすなわち地獄だから。

それからもどんどん辛くなっていってどんどん孤独になっていって心も体も弱りきって、トンデモなやらかしをしてしまったんだけど。
でも破壊と再生は表裏一体、というように、私の人生は再スタートするチャンスを迎えた、と思っている。
それもこれも、生きていたからだ。

私がそんな小さな希望を持った矢先に、また哀しいニュースに触れた。

自分らしく生きることを模索した人が、若くして、志半ばでこの世から去ってしまったと。
それはとても残念なニュースだと思った。

その方は有名人で、動向はテレビ等を通して伝わっていた。本人の気持ちはよくわからないけど、模索していることは確かなのだろう、といった感じだった。

近年のその方の言動は一般には理解されがたく、さまざまな憶測と、非難も呼んでいた。
かくいう私も、内心「その方自身は自由にすればいいけれども、子どもは親を選べないのだし、子どもがどう思うかは心配だなぁ」などと老婆心を働かせていたりした。

しかしニュースを受けて。
「彼は戦っていたんだなぁ」と感じ、素直に哀しく、また、残念だと、冥福を祈った。

亡くなってなお、非難を続ける者がネットにはいたらしい。
またテレビでは、共に仕事をしたことのある芸能人が擁護のコメントを出したり。
でもどちらも、ただの憶測だ。

世の中って、世論って、本当に「多数派のもの」でしかなくて、生まれた時からマイノリティだって感じてる私は、唾棄すべきものだと思っているのだが。
でも、やはり人間は社会的動物なので、本当はそこに入りたい、と希ってしまう。そして、迎合してしまう時もある。

最近私も多数の人からいろんな意見を言われていたり、自分でも色々考えて思っていたことがある。
それは、

「(外から見ている)他の誰にもわからない悲しみと、誰にもわからない幸せがある」

ということで。
その人の人生はその人しか経験していないのだから、他の誰にも、その痛みも、幸福も、真の意味では理解できないのだ。

最近、とにかく自分の苦しみを知ってほしくて誰彼構わず捲し立てていた私がよく言われていたのは「みんな苦しいのは同じ」という言葉だった。
私はそれを言われるたびに余計苦しくなっていた。
苦しみがない人生なんてないことはわかる。でも、明らかに他人──少なくとも「社会」でちゃんとやれてる人──とは違う苦しみだって確信していたから。

「白鳥が優雅に湖面を泳いでいるように見えても、実は水面下では必死にもがいている」という喩え話もされた。でも、ちゃんと泳げてるならいいじゃん! って私は叫びたかった。私は頭から水に突っ込んで足で虚空を蹴って、溺れて死にかけてるのに、優雅に泳ぎながら偉そうに説教されたくなかったのだ。

私の身に起こったことは、世間一般からみたら大したことないのかもしれない。
というと語弊があるが、わかりやすく「親から酷い虐待を受けた」とか「苛烈ないじめにあった」とかではないから、そんな人たちに比べたら恵まれているじゃない、と思われがちだ。

でも、あの日に9時間一緒にいてくれた方は後日私に関してこう述べてくれた。
「実際に起こった出来事の1000000000000倍血みどろになってるように見える」と。
人の感受性もそれぞれなのだ。でも、本人にとっては、その胸の痛み、出血量は、厳然たる「現実」なのだ。
それを一般論で「みんな同じ」「みんな苦しい」と括り、苦痛の訴えを上から抑えつけてしまうことは、どれほど残酷なことだろう。

社会を円滑に回していくためには、少数派を切り捨てることは仕方のないことかもしれないけれど。
でも、世界には、そういう人たちがいるのは事実で。しかも、「少数」として切り捨てられるほど少なくもない。
孤独の形はそれぞれ違っても、孤独を抱えた人は多い。
みんな共通の悩みではないからこそ孤独なのだ。

少数派の価値観は理解されにくい。伝える前に「正論」で叩き潰されることも多いし、伝わらないからこそ孤独なのだ。
でも、似たような悲しみや苦しみを経験している人もいるという事実、そしてその人がまだ「生きている」という事実を求めている人もいるんじゃないだろうか。実際、私がそうだ。孤独を抱えても人生を続けている、そんな人を探して、そのあとを追って「生きたい」と願っている。

私は、孤独にありながらも「生」を求める人に届けるために、自分の言葉を紡ぎたいと思う。
私はそのようなことをしてくれた人のあとを追ってここまで生きてこられたし、私が自分の能力を活かしてこの先この世にできることは、それしかないから。

志半ばで逝った彼も、彼の人生と意志を支え続けた彼女も、自身の言葉で発信していたし、今回のことを受けて再掲された彼の過去のインタビュー記事や、彼女のSNSでの正式なコメントを読んで、私も見方が変わった。

彼らは自分たちなりの人生の形を模索しながら懸命に生き、また、自分たちの子どもにも自らの想いと言葉を伝え続けていたと。そしてこれからも、彼女は子どもに伝え続けると。

私は「子どもは親を選べない」と思っていたし、それは事実だ。でも、それだけ真摯に自分のことを思ってくれる親の愛情を受けて育った子どもは、きっと幸せになれるし、彼らが感じていたこの世界の不自由さを変えていく「希望」になるのかもしれないと。
そんなふうに、私の価値観は少しだけ変わった。それも確かな事実だ。こういう繋がりや積み重ねが、この世界を良い方へ転がしていくのかもしれない。

生きてるってすごいことだ。
でも、自分で死ぬってことも、すごいことだと思う。
決して褒めてるのではない。「私にはとてもできない」という意味で、すごいと思う。自死に関するニュースを見るたびに、私は素直な感想としてそう思っている。

若くして自死を選ぶことは、「犬死に」にあたるのだろうか。
犬死にの詩をたくさん書いて、十九歳という若さで夭折したカリブロという詩人は、「月の光になるよ」と書いた。

『サーチライトは月の光とともにタイトロープを照らせ』

月の光は「照らす側」なのだ。
不安と孤独に苛まれながらも、最後に振り絞った力でピンと張り詰めさせた、細い細い人生のタイトロープを、その足元と行く先を、導き照らす側なのだ。

私はまだ生きているから、サーチライトになりたいのだ。
月の光とともに、タイトロープを照らすのだ。孤独な人々の人生を。
きっとみんないいところへ行けるし、もし途中で落ちてくたばったって、ずっと照らし続けてやる。

私のペンは、まだ懐中電灯くらいの頼りない明るさかもしれない。いやもっと弱くて、風前の灯火くらいに不安定なものかもしれない。
でも、いつか。暗闇の夜空を裂くサーチライトほどの光量で、タイトロープを照射できるようになりたい。

私のタイトロープはその方向に張り直したし、私にとってのサーチライトと月の光がそれを照らしてくれているので。
心を鎮めて、落ちぬように。一足一足ゆっくりと。
そのタイトロープを渡っていきたいと思うのである。


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