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「好き」とは?

「好き」ってなんだろう?

最近、「好き」について
思うトコロあったり
話に出たり、

今日も勝手に浮かんできたことを
アウトプットするだけで
相変わらず
まとまってませんが

どこかに
着地できるといいなということで

どこにも答えはなく
出たものも
ただの一面であり

あくまでも私の観念であり
極に振れてる
独自の認識であるということを
前置いて

ーーーーー

「好きなことをしましょう」
「好きを選びましょう」
「あなたの好きはなんですか」

と聞くと、
何を思い浮かべるだろうか

こうなると
探してしまう

だけど
考えるに…

実は、今まさに
自分がそうしている
どの瞬間も
自分がそうしていること
自分がその状態であること、

もっと言えば、
そのまんま
ありのまんまが
自分の「好き」の表現でしか
ないのではないだろうか

つまりは、
好き=表現であり
好き=存在そのもの
というような

好きという言葉に
とらわれず

従来の概念を飛び越えて
全く新しい「感じ」に
ただ単に置き換えられると
新しい好きに出会うことが
あるかもしれない。

もちろん自分が
意識できる「好き」
つまりは
自分の概念通りの好きも
あるだろうし

だけど
意識できていなかったとしても
そこには、説明の要らない「好き」もあって

無意識で
たぶん勝手に
必然的に「好き」なことをしている

「好きは、自分から分離していない」

ーーーーー

好きは、「あたりまえにしている」
ことでもあり、

探すものでもないし
わざわざ見つけるものでもないのでは
ないのだろうか、という考察である

好きなことを仕事にしている
というのも

話を聞いてみたりすると

たまたま
そのあたりまえに
し続けていることが
仕事になっただけのようで

いうなれば
こちらから見ても
「ソレをお仕事にしている人だー」
としっくりきて

宇宙エネルギーというか
天然自然というか

そのエネルギー通りに
しっぽり当てはまっていて
違和感があまりない

さらに言えば
そういう
無限の宇宙エネルギーに
コンタクトしつづけているゆえに

無限にエネルギーが使え
周りとは時空間の違う領域で
その具現化が進んでいるのではないだろうか

例えば

好きであるお料理。

どう食べたらおいしいかを
考えるのもワクワクするし
むしろ考えたい。

切ったり刻んだり
コトコトしたり
手にかけている料理の最中も
どこまでも夢中で楽しい。

それは
その人にしかない時空間にいて

その人が、感じている1時間は、
周囲が感じている1時間と全く違ったりする

次元が違うのである

しかも
その1時間は全く疲れてなかったりして
その人にすれば
まさにワンダフルタイムであることであろう。

誰に何か言われたわけでもなく
そうしている

でも、実は「そうであること」からは
そもそも
逃れられないというか
実は、それ以外にない。
のではないか?

という気づきが
訪れると

仮に「好きなことはなんですか?」
と聞かれたら

「見たまんまです」と答える

それにすぎないのではないか


それは、ちょっと
わかりにくいかもしれないが

その人がそうであることは、
きっと溢れているだろうし
きっと漏れている

その人が
宇宙エネルギーと連動しているというか
その中に在るというか

その人自身の
存在エネルギーとでもいうか
生命エネルギーが顕現されてるように
感じられるだろうし
満ち溢れている

ーーーーー

「しかたがないのよ、好きだから」

なぜかわからないけど
なんでかシランケド

ただ、好きは、「そうである」
だけなのでないだろうか

補足
いやだと思うことすら
体現、表現されているなら
それは、ある意味「好き」の範疇なのでは
ないだろうか

例えば、いつも悩んでいる
悩むことが好きなんだな
いつも迷っている
迷うことが好きなんだな

とか。

インスタグラム より抜粋
@transparent.one


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