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変わらぬもの / タンジュンブノア(2)

2003/09/07

翌朝、宿の近くの WARTEL(電話屋)から友人の部屋へ直通電話を入れた。朝九時前という判断の難しい時間帯ではあったが、どうにか無事に連絡をつけることができた。安眠を叩き起こすという最高のかたちで。

昨晩、友人がホテルへ戻ったのは深夜一時過ぎだという。そして彼もまた、朝九時ぐらいには電話が鳴るだろうと予想していた。互いに行動が読めてしまっている。分かり易いやっちゃなと、そんな友人の言葉にふたりで笑った。

友人は今日でバリ島の滞在を終え、午後のフライトでバンコクに戻ることになっていた。タイ国際航空が催行するホテル付きの週末プロモーションだった。

「バリ島だけずっと安いんだよ」と友人は言った。「テロの影響かな、そうなんやろな」と。

先月のジャカルタのテロと同様、一年ほど前に発生したあの凄惨なバリ島爆弾テロ事件でも、標的にされたのはすべて外国人だった。

観光業で経済が成り立つこの島にとって、テロが与えた負のイメージは簡単に払拭できるものではなかった。足の遠のいた観光客を呼び戻す策のひとつとして、こうした破格のプロモーションを続けざるを得ない事情があったのかもしれない。

「ところでチェックアウト何時だっけ」

「十二時だったかな。まだ三時間ある。ホテル着いたら教えてよ。ビール持って海行こ」

「いいね。途中で買っていこうか?」

「あははは、もう買ってある」

ふたりで大笑いしながら電話を切った。流石としか言いようがなかった。

海パンと水中メガネをショルダーバッグに詰め込み、宿の前でタクシーを拾った。車は砂州のように伸びるタンジュンブノアの街を軽快に疾走した。

運転手に声を掛けて両方の窓を全開にすると、潮の香りを含んだ風がシャツの袖口から入りこみ、身体中を勢いよく駆け抜けていった。空にはすでにカラフルなパラセーリングがいくつも浮かんでいた。

昨夜と同様、タクシーはヌサドゥア地区に入る直前で一度、ホテルの正門でも再度、厳重なセキュリティチェックを受けた。数人の警官に取り囲まれ、あちこちに金属探知機が当てられ、乗客であるぼくにはパスポートの提示が求められた。

いつかこの警官の数が減った時、ようやく本来の日常がこの島に戻るのかもしれない。その時までいったいぼくらには何ができるのだろうかと、そんなことを思った。

昨日と同じロビーのソファに深く沈み、友人が降りてくるのをぼんやりと待った。色鮮やかな花々で飾られたホテルのエントランスに、柔らかな陽射しが光の帯となって降り注いでいた。バリ島なんだと思うと、なぜか少しだけ悲しい気持ちになった。

ふと思いついて身体を起こし、日本語の堪能なバリ人のフロント係に目配せをした。営業的な、と言い切ってしまうことさえ躊躇われるほどの大きな笑顔を、彼はまっすぐに返してくれた。ピース、と心の中で小さく願った。

「うわっ、怪しいなぁ」ぼくを見つけた友人はそう言って嬉しそうに笑った。

「待て待て、こないだバンコクで会ったばっかじゃん。まだ六週間も経ってないっしょ」

「過酷な六週間やったんやなぁ」

「ちょっとは旅人っぽくなったかな?」

「国籍不明やな」

そんな友人の言葉に声をあげて笑った。すっかり日に焼けていたし、眼光も、顎のラインも、多少は鋭くなっていたかもしれない。

そして何より、インドネシア語や英語ばかりを話していたせいか、頬や口の周りの動きが微妙に変わっていることは自覚していた。日本語がどうしてもたどたどしい発音になってしまう。国籍不明? そりゃないだろ、とは思いつつ、強く否定できない自分がいた。

「お土産あるよ。とりあえず部屋飲みしよか」

「えー、海行こうよ」

「それ持ってビーチはつらいな」

「何だろ?」

「あはは、うずらのピータン」

「ほんと酒飲みだなぁ、知ってたけど」

景気付けに友人の部屋で缶ビールを二本ずつ空け、殻がピンク色に着色されたうずらのピータンに舌鼓を打った。

「タイのセブンイレブンに時々置いてあるだけなんだよ、超レアもの」と友人は笑った。

「六年前のこと、何か覚えてる? ふたりで飲んだビール以外で」とぼくも笑いながら訊いた。「いろいろ覚えてたはずなんだけど、うまく引き出しから取り出せない感じなんだよね」

「せやな。んー、アジア通貨危機の渦中やった。あの夏、1997年」

「そっか、そうだったね。旅の後半、為替レートが大荒れしたんだ。結果的に節約できて助かったけど」

「ビールの大瓶な、最後は150円ぐらいでな。あかん、肝臓持たへんって」

「結局ビールかよ!」

友人は先にチェックアウトを済ませ、貴重品も荷物もすべてフロントに預けてしまった。どうやら海パン姿のまま空港へ向かうつもりのようだった。

うずらのピータンとビールですっかり勢いのついたぼくたちは、さらに山ほどの缶ビールを抱えてホテルのプライベートビーチへ出かけた。

ビール片手で浅瀬にぷかぷかと浮かび、口寂しくなると海水を舐めたりもした。肴になりそうなものはないかとゴーグルを付けて一緒に海に潜り、海老や蟹やナマコを見つけては、水中でおかしなジェスチャー当てクイズをして笑った。なるほど、網焼きか、たまんないな。あ、今ちゅってスープ吸っただろ、なんだよその巻貝、うまそうじゃんか、と。

もはや優雅な楽園リゾートではなかった。浜辺ではしゃぐ飲んだくれたちの夏休みだった。たっぷりの陽射しと底抜けの開放感。どこまでも続く水平線と山ほどのビール。

空港内のカフェでもまた、テンペのフライをつまみにビンタンビールの大瓶を二本ずつ空けてしまった。くだらない笑い話を繰り返し、何度もグラスをぶつけて乾杯を重ねた。

これだけ飲んでもまだ午後四時という時間だった。いったい朝から何リットルのビールを飲んでしまったのだろう。

出会いというものは実に不思議なものだった。オニオンリングをつまみに、ふたりで最初にビールを飲んだのはもう六年も前のことなのだ。

変わってしまったものも確かにあるだろう。何かを留めておくことなど今のぼくたちにはできなかった。時間は決して振り返ることなく、淡々と未来を目指すだけだ。

結局、変わらないのはビールの量だけだった。

乾杯ってまるで魔法の言葉みたいだなと、出発ゲートへ向かう友人の背中を見つめながら思った。

友よ、いつかまたどこかで。

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