見出し画像

売野雅勇さん国際フォーラムA

売野さんと私はかれこれ...やはり40年になるだろうか。実は近年も行ってる美容室が同じで激しくご無沙汰にならずに済む強みがある。
誕生日も’つい忘れがち’になり難い222で最低一年に一度以上の連絡をずっとキープしている。
作詞家売野さんとの楽曲も数あるけれど、作詞作曲というタッグを組む時作家同士が会うことが実はあまりなく、私が売野さんとリアルに親しくさせて頂けることになったのはかつての売野さんの事務所フェブライオ・エ・メッツォの売野さん担当のマネージャーとプライベートで交流が大いにあり好きな洋服のブランドが同じだとか、音楽に留まっていない分野からも親しみを感じるようになり会う機会が多くなっていたからで、その流れもあり90年代には売野さんの事務所でマネージメントをやってもらうことになる。担当となるその友人からは当事務所は作曲や編曲のことにはあまり長けていないけどそれでもいいだろうか、と言うexcuseもあったけれど売野さんの魅力とその担当者の魅力、どちらもあって暫くはそこに身を預けていた。身を預けるという表現は誤解されそうだが、スケジュールや著作物の管理をお任せするということを指す。
私のこの時の決め手は「雰囲気」が良い、それに尽きる。
80年代怒涛のようなアイドルブームはどのような速度かはわからないけれど私の感覚では砂浜に裸足で立っていて波が静かに引くような感じだろうか。そして寄せては返す、じゃなくてもう返ってこない。私の身辺も人も環境も少しずつ変化していく。
私にとってはそんな頃だと思うが売野さんがインターネットラジオを始めたいと仰る。
一話ごとの音楽が必要で手伝ってもらえないだろうかと。劇中に流れるBGMなので唄ものではないのだが私は音楽制作をして発表の場が持てることが有り難く、Radiogenicというこの番組の音楽制作に没頭したものだ。
昨日のフォーラムでは41曲が演奏されステージの転換毎に曲紹介としてクレジットがスクリーンに映し出されアイキャッチが流れる演出だった。
そのフォントや動きかた、そして流れるサウンドエフェクト。
2002年、パソコンの前でRadiogenicを初めて見た時、なんとセンスの良い音使い、タイトルもえもいえぬフォントとイージングであった。これは全て売野さんのセンス他ない。昨日のコンサートでは2002年のRadiogenicがすぐ思い出され、なんともこれも言い難いゾクゾクと胸の奥底からいい感じが湧き上がった。
一貫して揺らぎのない売野さんのポリシーを感じずにはいられない。
曲を聴くかたは作詞家としての売野さんの詞をご覧になる訳だがそれだけたくさん素晴らしい歌詞を書けるということは人として深みのある面白さ、チャームがあるからだと思う。
終わりのスピーチで「みなさんは、(ぼくのことを)コレだけやってきたんだからもう充分だろう、色々やってきたんだろうと思われるかも知れませんが、違います。ゼロですから」という事を仰り、これについては立ち場が違うけれどとても頷ける事だった。
この表現の仕方、私の解釈が間違っていなければやはり自分と同じマインドかと思う。
会えばいつも笑いが何故か止まらなくなる話が出る私たち。どう久しぶりであろうとお互いのこのテンションはどこから来ているのだろう。
先輩である売野さん、やはりリスペクトしかないのだがそれでも絶対に距離を置いたりしないところが素敵だ。こうはなれないけど見習いたい。
作詞と作曲との関係や違いなど、文章にするのにはあまりに難しいがまたいつかトライしてみたい。
その前に売野さんがDATで持ってるという一緒に作った曲を聴いてみたいな!!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?