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【SS】しのぶれど思ひそめにし我が恋は

帰りの電車の中で吊革につかまり、俺はそのとき、車窓から見える遠くの光景を眺めていた。
その日は台風が近づいてくるとかで、会社にしてはめずらしく午前中の仕事を終えた後は、早く帰れることになった。
窓からのぞく、建物の遥か遠くに見えるうっすらと青い山々を目にしていると、俺の脳裏にある情景が浮かんできた。

時は過去に遡り、俺は一人の忍びとして、ある城主に仕えていた。
その城主は、日本のある領地を所有しており、群雄割拠ぐんゆうかっきょする戦乱の世にあって、中々の隆盛を誇っていた。
城主には三つの忍びの流派が仕えており、世継ぎはことごとく消え、残ったのは姫一人だけだった。
俺は三番目の忍びの流派を束ねる頭を常に警戒していた。
なぜなら、その頭は相当に過酷な人生を送ってきたらしく、どことなく薄幸そうな雰囲気と人の心をつかむような話し方で、ある種、人の気を引きつけて止まないところがあった。
けれども、彼に人気があろうがなかろうが、この際、俺にとってはどうでも良い。問題なのは、姫がどうやら彼に懸想けそうしているのではないかということだった。
姫は城主にとって今や、一人しか残っていない直系の子孫。城主と姫の二人を忍びとして守るのは当然のことではあるが、守った結果として、三番目の忍びの頭に全てをさらわれるのは困る。
ましてや、姫を盗られるのは。
領内で、または城内で彼を目にする度、俺は言いようのない苦々しさを心の中で味わった。
ある日、激しい雷雨に見舞われた日があった。
城内を見張っていると、姫が城の庭を侍女とともに歩いていたらしく、雨の中で小袿をかぶりつつ木陰で右往左往していた。
俺はすぐさま二人の元へ駆けつけ、近くにあった離れへと連れて行った。
離れの側には桑の木が植えられ、雨を受けて、その大ぶりな葉を揺らしている。
一時的にでも雨宿りできるよう、ぬかりなく離れの中を調べた後に二人を中へと呼びこんだ。
雨は激しく降り、止む様子は一向にない。
気づけば、姫の手が俺の左腕に触れていた。
俺は姫の顔を見た。姫もまた、俺の顔を見ている。
どうしようもなくて、俺は侍女の方を見た。侍女は目くばせされたと感じたのか、気をつかって外に出て行ってしまった。
姫は俺を見て、微笑んでいる。
ああ、姫よ。あなたはなぜ――。
その後、どちらからかは知らないが、気づけば俺は姫の体を抱き寄せ、唇を重ねていた。

それから然程さほど時間が過ぎない内に、城主は他領地の城主達と争いを繰り広げることとなった。
領地を奪い合い、取返した後に形成が逆転し、次第に分が悪い戦を強いられることとなった。

敗戦の色がますます濃くなった頃。
俺は城主に一人呼ばれ、室内に入った。
城主は鎧も解かずに一人座している。
彼はじっくりと俺を眺めた後、次のように言った。
「この戦は負け戦。城を守ることができるのも、最早これまで」
城主はゆっくりと目を伏せた。
「姫がお前に懸想けそうしているのは知っている。だからこそ、姫の護衛をお前に任せたい。それから」
城主は言葉を一旦切り、深い息をつくような重々しい声音で言った。
「無事ここから逃れ得ることができたなら、姫を妻としてめとり、二人で幸せに暮らしてほしい」
俺は頭を垂れたまま、城主の言葉を聞き、躊躇ためらいなく彼の命を了承した。

城主の言葉通り、やがて城が敵に攻め入られ、まもなく城内での戦闘となるのは想像に難くなかった。
姫を守り、外に連れ出す他なくなった。
俺は、地下の隠し通路へと姫と侍女達を誘い、暗い通路の中を延々と走って行った。
逃げた先。そこには敵の姿はなく、森の奥深くを俺は姫と女達を伴いながら、後ろも振り返らずに逃げたのだった。

あれから、しばらく時間が経った。
山の奥深く、眼下に広がる光景を俺は一人でながめていた。
ここには誰一人、いや、敵すら近寄る者はいない。
急峻きゅうしゅんな崖に阻まれ、獣すら這い寄ることもできない秘境とも呼べる場所。
この場所に俺は家を建て、姫とともに隠れ住んでいる。
時間が経つ内に、この隠れ家での生活にも慣れていった。俺にとっては、今や極楽にも近い場所となっている。

しのぶれど思ひそめにし我が恋は――。
俺は雲海を眺め、心の内で和歌の上の句を詠んだ。

その昔、帝の前で歌合が開かれ、平兼盛と壬生忠見が『恋』を題にして和歌を詠んだことがあった。
いずれの和歌も優れており優劣つけ難かったが、時の帝がしのぶれど、と口ずさまれたため、勝敗は平兼盛に上がることとなった。
だが、どちらも優れた和歌ならば、いっそのこと本歌取りして上の句をつくってみてはどうだろう。
つまり、優れた歌同士を掛け合わせて上の句に据える。すると、どうだろう。
下の句は上の句に比するようなものを詠まなければならない。
それは己の人生を本歌取りした上の句に据え、導き出される下の句を考えるようなもの。
従って、次に続く言葉は――。

気配がして、俺は後ろを振り返った。
姫が家を出て、こちらへ歩いてくる。
俺は気づかないふりをして彼女を待つ。
歩いてきた姫は俺の横に並ぶと、この上もなく優しい表情で微笑んだ。
ここに、俺とともにいてくれるのは姫だけだった。
「姫――」
俺は姫の体に触れて引き寄せると、自身の唇を姫の唇にそっと重ねた。



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