灯油缶

器用ではないですが真面目に生きているつもりです。

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最近の記事

眠れない夜に,何をしましょう。

眠れない。  慣れたもので,眠れない日には布団に入って目を閉じた瞬間に「あ,今日眠れないわ」と分かる。(厳密にいえば布団に入る前から眠れない予感はしている。)  原因が思い当たるときは良い,それをやめればいいだけだから。しかし厄介なことに,眠れない日の多くはこれといった原因が思い当たらない。だから不満をどこにぶつけていいのかわからないし,そもそも不満を持つことが無意味だ。  諦めて,眠れない夜にやるべきことを模索する。  ゲーム,資格の勉強,読書,運動,テレビ,ネット

    • 若者が緩和ケアに携わっても良いですか?

       緩和ケアに興味がある。緩和ケアとは,大まかにいえばがんの終末期などで全身状態が悪くなった患者さんに対し,(全人的)苦痛の緩和および心理的・社会的サポートなどを施すことを指す。医師や看護師はもちろんのこと,薬剤師・栄養士・MSW(メディカル・ソーシャルワーカー)・臨床/公認心理士など様々な職種が関与する。私は将来医師として医療に従事する予定であるが,緩和ケアは医師人生の序盤を捧げる分野として適切なのか。  この疑問を持ったのは,多くの緩和ケア病棟や緩和ケアチームにおける実習

      • 仲良くなれるのは,熱量が似ている人

        「ずーっとうまくいっている人」が苦手である。  周りが見えていない、さらに言えば僕のような雑魚は視界に入っていないのだろうと、勝手に自虐の材料にしてしまう。話が通じないだろうなと感じる。そういう人とは初対面の数分で距離を取る(決して上から目線ではなく、自衛のために)。  逆に初対面で「仲良くなれそう」と感じて距離を詰めたくなる人もいる。そういう人の共通点を探してみた。  いくらでもありそうなものだが、これが意外と見つからない。共通の趣味を持っている人もいればそうでない人

        • かたおもい

          文章を書くのが好き。ボールペンでも鉛筆でもパソコンでも関係ない。誰に頼まれないでも書いてる。他人の文章を読んであれこれ(頭の中で)批評したりなんかもするし、使う漢字や表現がしっくり来ない文章を読むとイライラしたりもする。逆に好きな文章はノートに書き留めていたり、ふとした時に思い出したりもする。 しかしながら、これまで他人に文章が評価されたことは一度もない。計算ドリルを解くのが速くて褒められたことはある。足もちょっと速い。年の割にしっかりしてるねと言われる。ただ文章に関して良

        眠れない夜に,何をしましょう。

          倫理規定

          大企業や役所、病院の中には、何かあった時の「言い訳」のために存在する倫理規定がいたるところに貼ってある。 皆様の情報は丁重に扱い、外部に出しません。お客様第一です。危険が無いようとても気を付けてます。社員を大切にしています…… 「基本理念」もそうだ。 社会に貢献する……人と社会のために……皆様に快適を…… これも割と目に入るところにデカデカと貼ってあることが多い。 「過去にこんなミスがありました。今後は起きないように気をつけましょう。」旨のポスターは、存在理由がわかるし価

          倫理規定

          魅力的な人

          私の通うラボに、とても魅力的な人がいる。 その人、というより立場的には「その方」なのだが、その方は非常に穏やかで、とにかく波風が立つのを嫌う。 私とは祖父と孫くらいの年の差があるのだが、たとえば資料作成についても特に期限の催促もしないし、完成した資料をお渡しするといつも「ありがとうございます。」と深々と、何度もお辞儀をされる。 身分や歳の差からすると『お、そこら辺に置いといて』くらいでも普通だろう。 もしかすると仕事ができる人ではないのかもしれない。ただ仕事ができないでは

          魅力的な人

          理不尽に耐える訓練

          学校は理不尽に耐える訓練の場だという人がいる。 社会に出たら理不尽なことはいくらでもあるのだから、それに若いうちから慣れておく必要がある、という理屈だ。 自分自身の学生時代(特に小中学生時代)を思い出すと、確かに教員に理不尽な怒られ方をしたり、教員が理不尽なルールを当たり前のように作って生徒に押し付けていた記憶がある。 私は腹が立ったことは何年も覚えているタイプの人間なので、十年以上たった今でも当時のことを思い出して、当時と同じ熱量でイライラしてしまうこともある。 果たし

          理不尽に耐える訓練

          文章を書く訓練

          最近、ある課題に対して班で意見をまとめて提出するワークショップ?のようなものがあった。その際今までは感じたことがなかった、文章をまとめる速度が上がっている感覚があった。あくまで主観だが、班員から提出された意見を端的にまとめる表現を見つけるスピードが上がっているような気がしたのだ。 noteを始めてしばらく経つ。書いた文章の数こそ少ないが、自分の意見を要約する訓練にはなっていると感じる。しかしこれが他者から出た意見までまとめる能力の向上にまで寄与するとは思っていなかった。

          文章を書く訓練

          ツイートができない

          Twitterというアプリはもう何年も利用しているが、これまで自分自身のツイートとして投稿したものはほんの2,3件しかない。 いいねやリツイートはできるのだが、いざ自分の意見を表明しようとすると自信がなくなってしまうのだ。 (つい最近までいいねやリツイートさえ、「自分の価値観が知られたくない」という理由でできなかった。) 最低限のモラルを守ってさえいれば基本的に自由な表現をすることが許されているTwitterでさえ、自分自身をさらけ出すことはできなかった。 これはただ単

          ツイートができない

          「自分の意見」

          私はつい最近まで、「自分の意見」という言葉が理解できなかった。 自分の意見を持て、他者に流されるなと言われる。 しかし自分の意見の形成の段階で、どうしても他者の意見は入ってくるものだろう。そもそも何か意見している他者が存在しなければ、どうやって意見を持っていいのかすら分からないはずだ。 最近になって、この考え方は少し的外れであることに気づいた。 自分の意見は、ある事物を自分の目線から解釈するとどうなるのかという、ただそれだけの物なのではないか。 例えば50kgのダン

          「自分の意見」

          自分の中の世間の目を破壊する「武器」

          世間の目におびえながら生きている。 そのために多大なるエネルギーを消費し、最終的に何事も達成できない日も多い。一日ごとでリセットされればいいのだが、そうもいかない。長期的にダメージが蓄積していき、気が付いたら手遅れなんてことも多々ある。 この害悪極まりない物体はどこに存在するのだろうか。良くも悪くも自分を抑制し、これにヘタに注意を向けるとズルズルと奈落へ引きずり込まれるような存在。 そもそもこの世界は、全身から集められた感覚情報が様々な処理を経て統合され、一つの形として

          自分の中の世間の目を破壊する「武器」

          一人称の揺らぎ

          noteを書いていて、一人称の揺らぎに直面した。 現在自分がnoteに投稿した文章はすべて「私」という一人称で統一している(つもりである)。 なぜなら自分の文章を読んでくださる方々を想像したとき、どうしても自分よりはるかに社会のことをよく知っている、常識ある大人の方々が目に浮かぶからだ。 そんな方々に絶望されたくない、簡単に言えばバカにされたくない、その一心で割とフォーマルな場でも用いられている「私」という一人称を採用していた。 しかしどれだけ投稿を重ねても、書いている途

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          ことばの潔癖症

          何においても細かいことがよく気になる性格ではあるのだが、とりわけ言葉に関しては潔癖と言ってもいいほど気になってしまう。 とはいえ、豊富な語彙を使いこなしていたり、言葉の正しい使い方やマナーに関して精通しているというわけではない。 新聞に書かれている文章、授業で教員が使う言葉、ネットニュースの記事…… 少しでも(あくまで自分にとって)嫌な言い回しが使われているだけで心のシャッターが閉じてしまう。 何なら助詞の使い方のクセひとつでその人のことが苦手になってしまう。 極端

          ことばの潔癖症

          note健康法

          私は普段集中力がなくて困ることが多い人間だが、noteを書いている間は没頭でき、ほかのことがあまり気にならなくなる。いわば無心でいられるのだ。 これは近頃流行っている「瞑想」というやつなのではないか。 ほとんど誰にも迷惑をかけずに(間違って私の投稿を開き、内容に嫌な思いをした人は存在するかもしれません、ごめんなさい)、お金もかけずにこれほど没頭できることは、私の中ではあまり存在しない。 パソコンのキーボードをたたいて、文章のつながりや言葉の選択について試行錯誤する、この

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          他人の反応が気になるクセ

          noteを始めたきっかけとして、他人に流されない自分自身の軸を持ちたい、もし既に存在するならそれを認識したい、という考えがあった。 しかし結局自分の記事がどれだけみられているか、いい反応が返ってきているか、気になって頻繁に確認してしまっている自分がいる。 今現在は、「誰か」に読んでもらうために、その「誰か」に向けて文章を書いているわけではない。自分が思ったことを、書きたいように(ある程度世間の目を気にしながら)書いている。 今後、よりいい反応をもらうために、多くの人々が

          他人の反応が気になるクセ

          たくさん書く

          今はとにかく記事をたくさん書いている。 ろくに振り返りもせずダラダラ思いついた言葉を並べているだけだから、見るに堪えない駄文の山が形成されていることだろう。 まあ、振り返らなければいいだけの話だ。これも他者の視線への過剰な反応を減らすための訓練である。 これまで幾度となく「日記」というものに挑戦してきた。 小学校時代には夏休みの課題として、中高生時代には日記の効果を力説する何かの評論を読んで。 しかしそのどれもが、数年後読み返して羞恥心に耐えられなくなった自分自身によって

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