ルーツを想って
自分のルーツはなんだろう。
京都を旅行してた時にふと思ったことだ。
烏山のホテルから嵐山の方に沈みゆく夕焼けをぼぅーっと眺めながら、私はどんなルーツを背負ってきたんだろうか?
そんな途方もないことを考えついて、ずっと気になってた朝崎郁恵さんのあはがりを始め、いくつかの民謡を追い始めた。
私自身は祖母が満州出身ということを知っていて、辛い過去があったらしい。それ故か私はときたま中国人に間違えられて、そのまま中国語で話しかけられ続けて「I'm Japanese…」と話すのだけど、それも正しいのかわからない。
徳之島節に妙にハマった。
途中でUAさんfeatで朝崎さんが歌い上げる。
心地よい高橋さんのピアノが民謡を少し現代風に心地よくしてくれる。
壮大な世界観へと誘ってくれる。
病気のことはどうでも良くなってくる。
この時原因不明にのどに違和感があって声帯手術をした病院に戻ってきたのだったけど、異常はなかった。不本意ではあるが精神的なもの…という結果だった。
そもそもなぜ生まれてきたんだろうか?
まで下がってしまうほどだった。
でも落ち込んだり後悔というより、原始的な次元で病気にまでなって生かされてるんだろう。こうして生きてることは正解なんだろうか。と。
いままでいろんな手術や治療を経験してきたけど、たまに「このままでもいいんですよ」って言われることがある。正論をふりかざして治療を進める医療関係者もいるし、自分が望む方向性を応援してくれる先生もいる。
私は性同一性障害を持って生まれたから、性別適合手術や声のピッチを上げる声帯手術をしてきて、ひょっとすると人生を正解にしてきたのではないか?と想う時がある。性分化疾患は男女どちらかに傾ける治療が基本スタンスとなりがちだし、そういう傾向が根強いけど、それは正解だと私は思えない。そのままがあっていいのでは?と思っている。
(当事者間でもほんとに衝突することなので、普段口にはしないけれど)
テンションが上がり下がりして忙しい双極症は落ち着かせて良かったなって思ってる。
いろんな病気をこの身一つで引き受けてること自体が大丈夫なのかな?って思ったりすることもある。おまけに繊細で傷つきやすかったりする。
だけどそんな自分に落ち込むところは実はなかったりする。
本能的な部分を強い薬で押さえ込まなくてもいいんじゃないかなって。
いろいろあってわたしの自然体ってなんなんだろうか?
そんなふうに思ったのだ。
そんなとき民謡に帰ってくることが多い。
最近だとこの二人との出会いも大きかった。
なんだろう、この心に秘めた琴線に触れてくる感じはなんだろう。
実はソーラン節とか花笠音頭とか原風景じみたものが好き。
むかしがえりのような、生まれ変わりがあるとするならば前世に遡るかの如く、非常に心身癒されるようになってきた今日この頃です。
余談だが昔SNOWでAIで自分の写真を数枚出したら、中国少女のような写真を出してきた。やるなと思ったわ。
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