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母の日に想うこと2

母の日に何もしたく無い理由がもう一つある。それは私が母(実母)に何か贈り物をして喜んでもらった記憶がないからだ。

私は今こんなに母と距離をとっているけれど、それはここ何年かの話で、それまではとても距離感の近い親子だった。ことある毎に電話して、イベントのたびに贈り物をした。

でもいくら贈り物をしても、私が送ったそれを母が使っているのを見たことがない。母が喜んでくれた記憶もない。

小学生の頃、母の日に妹と二人で贈り物をしたことがあった。家族でショッピングモールに行った際に、母親と離れた隙にこっそりトートバッグを買った。妹と二人でワクワクしながら、母親の喜ぶ姿を想像しながら、当時の私達からしたら決して安くない額の大人っぽいトートバッグを購入したのを覚えている。

母親はそのバッグを一度も使わなかった。喜んでもらった記憶もない。自分が母親になった時にそれを思い出してゾッとした。小さな子供がお母さんのためにお小遣いを出し合って勇気を振り絞って買ったそれを一度も使わない母親がこの世に存在していることに、それが紛れもない自分の母親だということに戦慄した。

高校生の時にはタータンチェックの赤い素敵なストールをデパートで父親に買ってもらって母親にプレゼントした。(わりと高かったとおもう)
それも母親は一度も使わなかった。

あのバッグやストールはどうなったのだろう。母親は一度も使わずに捨てたのだろうか。

私の数々のプレゼントの中で、母親がたった一度だけ大喜びしたものがある。それはなんと「現金」だった。私が就職して初めてもらったボーナスの中から手渡したお金だった。

当時の私は知らなかったけれど、母親はASDだ。人の気持ちが分からない。だからといって我が子からもらったプレゼントをそんなふうに扱えるなんて人間性を疑ってしまう。特に自分が母親になってからは尚更。

そんな背景があるから、母親に贈り物をするのはどうしても躊躇してしまう。あの頃の私の傷が疼くから。どうせ喜ばない。どうせ使わない。どうせどうせどうせ‥‥。

本当は喜んでいても喜びを表現することが苦手なことも知っているし、私が知らないところでこっそりプレゼントを使ってくれていたのかもしれないし、真相は分からないのだけど、そこには傷付いた小さな私がいて、今もまだ拗ねているんだ。

癒すべき記憶って本当に無限にある。一体いつになったら母に面と向かって大好きと言えるのだろう。今世でそんなこと可能なのか。途方に暮れるほど道のりは長いけれど、少しずつ向き合っていくしかない。そのために私は今日も書く。書くことが私の癒しだから。

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