「いい写真」の定義は定期更新すべし
いつも見ていただきありがとうございます。
【毎日、誰かのために生きる】を目指して、魂の成長を心掛けております。
私という意識本体は【私の中の4つ】の管理者。
一霊四魂(いちれいしこん)
【私】という意識の本体は直霊(なおひ)といい、その管理下に4つの魂があります。
1.奇魂(くしみたま) → 智慧 探求力
2.和魂(にぎみたま) → 親 調和する力
3.幸魂(さちみたま) → 愛 育てる力
4.荒魂(あらみたま) → 勇ましく戦う 達成力
直霊がこの4つを律してこそ、はじめて人生を極める道へすすめるのかもしれませんね。
またこれと全く同じような考えを脳科学者のジル・ボルト・テイラーさんも書いておられます。
脳は左脳と右脳で独立した偏桃体であるが、さらに大脳皮質と大脳辺縁系に分けて4つの部位、4つのキャラクターに分類できるのだとか。
私の中の【4人の私】をうまく手なずける。しっかり手綱をもって。
しかし、神道の教えと脳科学の研究がぴったり一致するとは驚きですね。
さて、今回は写真のお話です。
最近、noteの写真カテゴリで良く見かける話題「いい写真とは何ぞや」。これって写真が好きな人の永遠のテーマですよね。
みなさんの記事でよく見かける意見が「自分がいいと思った写真がいい写真」といったもの。なるほど、確かにそうですね。私も激しく同感です。
私が最近思うのは「いい写真とは」という考えを持ち歩いて写真活動するにあたり、その自分なりの定義を固定してしまうと少し勿体ないな、ということです。
考えって経験、年齢、環境などによって変化するものだと思うのです。だから自分にとってのいい写真の定義も、いつもそれを考えて定期的に内容を更新するのがいいと思います。
ちなみに今の私の「いい写真」の定義は以下のような感じです。
【私がこの世に生きた記念を素敵に残すこと】
そう、記念。
どんなにARTを意識しても、ドキュメンタリーに事実を訴えても、すべてのカメラは撮影者の人柄を反映させるものです。
なぜそれを撮ったか、どうしてそう撮ったか、すべてはシャッターを押した人の人となりです。
だからその人が【そこでそれを撮った記念】であり【その人が生きた記念】です。そのことが分かって意識してシャッターを押すようになり、私の写真は少し変わりました。
写真教室の先生をやっていた頃は、生徒さんに「記念写真みたいに撮るのをやめよう」なんて教えていましたが、いまは全ての写真は記念写真だとさえ思えます。
また少し時間が経過し、成長したら【私にとってのいい写真】ってやつを更新してみたいと思います。
今のみなさんにとって「いい写真」とは何ですか?
それを考察するだけで何だかワクワクしませんか?
この世で生きた記念、それを素敵なものにして残したい、という欲求。その欲求に従順にシャッターを押す。すると「この世で私は確かに生きている」という私の生命感を実感できる。
・・・だから写真って撮るのも見るのも楽しいんだと思います。
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