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#ヤバいブルガリア文学 1―ブルガリアの麻薬文学―

「ヤバい」なんて俗っぽい言い方になってしまったが、ちょっとでも多くの人にブルガリア文学のヤバさを、いや面白さを知ってもらいたいから、敢えてこういう言い方を採った。

今回紹介するMomchil Nikolov モムチル・ニコロフの"Hash Oil"『ハッシュ・オイル』 は、ブルガリア現代文学の作家についてまとめられたサイトCONTEMPORARY BULGARIAN WRITERSにて知った。マイナー海外文学に渇望している人は特に、ぜひ覗いてみて欲しい。

作家の経歴や作品名などがきれいにまとめられており、しかも彼らの連絡先まで掲載されている。このサイト、すごい。

1970年生まれのモムチル・ニコロフは、薬学部出身という経歴を持つ作家で、これまでに8つの小説を著しているほか脚本も手掛けており、ブルガリアの重要な文学賞の受賞経験もある。『ハッシュ・オイル』は2001年の作品で、kindleの紹介文には、もしこれが映画化されるならばR18指定になるだろうとか、アーヴィン・ウェルシュ『トレインスポッティング』が引き合いに出されて説明されている。ちなみにこの作品はkindleの読み放題でゼロ円で読める。

題名のハッシュオイルとは大麻から生成される茶色い液状の抽出物のことだ。物語は、ブルガリアの人里離れた修道院に住む見習い修道士、アンゲラリウスによって生成されるハッシュオイルを中心に描かれる。
様々な人物による様々な幻覚体験、そしてそのめくるめく世界が詳述され、宗教から軍隊組織、投資家まで、一見麻薬とは何のつながりもなさそうな領域や人間たちに音もなく忍び寄る麻薬の触手を鮮やかに描く。その世界観とは、麻薬が聖俗の境界を取り払い、神聖なものと卑俗なものとがいとも簡単に融合し極彩色の幻覚のなかに溶けていってしまうようなものだ。この小説こそが麻薬なのかもしれない。

ボリスという仮名で生きる主人公は定職を持たず、たまにドラッグを密売して生計を立てるほかは日がな薬物とアルコールに明け暮れている。彼はある時ドラッグを密売している友人に仕事を求めたことがきっかけで、ハッシュオイルの取引に絡んでいくこととなる。
タイトルのハッシュオイルが登場するのは、小説の中盤にようやく差し掛かるころである。それまではボリスと友人の間でなされる、専門用語や隠語の混じったリアルな薬物取引や、破天荒な登場人物たちによる幻覚体験などが描かれ、色彩感覚強めの奇天烈な描写で幻惑されっ放しになる。そこで徐に、麻薬市場に君臨する王が現れたかのごとく登場するのがハッシュオイルなのだ。それはボリスの友人が旅先で偶然出会った修道士のアンゲラリウスから入手したもので、アンゲラリウスと結託した友人はそれをブルガリアのドラッグ市場に流通させようとボリスを誘うのだった。

友人にハッシュオイルの取引を任されたボリスは山の修道院へと向かい、アンゲラリウスを訪れる。が…修道院の宿泊客に取引を盗み聞きされ、二人が幻覚状態に陥っている隙にハッシュオイルが盗まれてしまう。取り返すのも時すでに遅し、ブルガリア中を薬物で狂わせようと目論む犯人によって、盗まれたハッシュオイルは水道管を伝ってブルガリア全土にばらまかれてしまったのだった・・・

話の大筋を書いてしまえばこのようになる。物語の大部分は登場人物たちの幻覚体験が挿話のように語られ、断片的であったそれぞれがボリスの思考や回想によってゆるやかに繋がっている。そして何より得体の知れないアンゲラリウスの存在が大きな影のように物語を覆っている。

実は「アンゲラリウス」やボリスの顧客として登場する「キリルとメトディウス」という人物の名は、9世紀のスラブ地方に実在したキリスト教神学者から由来している。
キリルとメトディウスの兄弟は、古代教会スラブ語で用いるグラゴール文字の考案者としても知られているが、二人の弟子であったのが、ブルガリア正教会の七聖人に数えられている聖アンゲラリウスなのだ。
小説では、アンゲラリウスは聖職に仕える身でありながら俗悪な薬物密売に手を染め、そしてキリルとメトディウスの兄弟もまた薬物で堕落し、クウェートで医者をやっている両親から持て余すほどの財産を引き継いで悠々自適、家のなかにモンゴルのユルトをぶっ建ててトラップばかりしている—名前の神聖な由来はどこへやら、だ。

彼らのような奇矯な登場人物たちの存在や、想像を超える展開がこの小説の魅力を富ませている。女友達とポルトガル土産のマリファナを試してアストラルセックスじみたトラップをしたり、友人の小説家が生み出したゴショという主人公が、なぜかボリスの守護霊的な存在となって修道院に導いてくれたり・・・

こうしたエキセントリシティは滑稽味と同時に皮肉と暗さをも含んでいる。登場人物の一人ひとりはどこかしら行き場のなさを抱えている。癒しようのないトラウマを抱え、破滅願望に取りつかれた者。自身の存在の根源を求めて彷徨い、誰にも理解されない孤独と悲しみを抱えながら、自身を傷つけかねないほどの繊細さを持っている者。彼らの退廃的な生活には、ブルガリアの社会に対する諦念と絶望が垣間見える。麻薬を常習する人間の心理を通して作者のニコロフが描いたものは、ブルガリア社会の暗部なのかもしれないと思う。

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