日記(2023.12.05)「やらない時代でいこう」+短歌

●日記

12月5日。何かの記念日だったような気がするけど思い出せない。

今日は特段事件もなく、仕事も立て込まずゆっくりと過ぎていったような気がする。こういう日があると体力気力が温存されていいなあ。

とはいえ若干の手持無沙汰も覚え、ふと来年はどう過ごそうかなどと考える時間があった。

今年はようやく自動車の教習所を卒業できたから、来年は別のことに時間を充てたいな。文学フリマもしばらくは既刊を売り歩くことにしたので、向こう数か月は新刊作業がない。フリーペーパーくらいは作るかもしれないけど。

本当はもっと編集技術を学んだり製本に詳しく慣れたらいいなと思うし、文章がうまくなりたいとも思うけれど(文章を書くのが本当に苦手だ。上達することはあるんだろうか。)、今年は文学フリマと日程が被って受けられなかった資格試験やら検定やらがあったから、来年は多少そっちを優先したいなと思う。何事もバランスだ。

とはいえ、当面転職を考えているわけでも、昇給のために資格取得が必要な訳ではないから、勉強するかどうかはひとえに私の自主性に掛かっているのだけれど。どうしようかな。

少し話が飛んでしまうが、私は今年の春から臨床心理士の方のカウンセリングを受けている。詳細は省くけれども大まかなきっかけは、「色々と無理してしまって人生が辛い」みたいなもので、以来人生がなるべく楽になることを目指して月に二回ほど先生のもとを訪れている。

無理をしてしまうと一言で言ってもわかりにくいかもしれないが、ひとつ例を挙げると、「現状の自分に満足できず必要以上に努力すべきと思ってしまう」ことがある。これは、ありのままの自分でいては心理的な安全性が担保されないかもしれないという不安の裏返しなのだが、これはカウンセリングを受けるまで自分の中に長いこと標準装備されていた観念だった。

もう齢30を過ぎ、自分の身の回りの大抵のことを自分の意思だけで決定できるようになっているのに、一種機能不全的な家庭ですごした幼少期に芽生えた「自分がしっかりしていないといけない」という気持ちが、何かにつけて様々な場面で私を意気込ませ、頑張らせようとしてくるのだ。

むやみやたらに頑張らなくたって、とりあえず仕事に取組み現状の生活を継続できれば十分に安全を享受できるのに、私の中の行動指針は子どものころからまったくアップデートされておらず、努力努力とから回る気持ちがときおり過剰適応や強迫行為となって自分自身や周囲を傷つけることとなった。

話を勉強に戻すが、つまるところ資格試験等について私は、特にやりたくもないし、必要もないのに子どものころからの癖で「当然やるべきだ」と思ってしまう傾向にあるのである。

向学心があるのはよいことだろうし、結果が昇進や昇給につながるならば大いに取り組む意味はある。はたまた、何の見返りもないがただただ楽しいからやりたいということならば、それもとても意義があるとは思うのだけど、私の場合は、「やるべきだ」という盲目的な思いが本心を隠してしまうことが多い。本当は特にやりたくないのにやろうとしてしまうのだ。カウンセリングを経た今でも。

長いこと自分の中で育ってきた、自分の中の理想を体現することで得られる一時の充足感や安堵への妄執は自分自身の感情を覆ってしまうほどなのかと思うと何だかやるせないが、最近は「何かやろうかな」と思い立った時こそ何か不安な気持ちを抱えているのではないかと注意深く自分の内面を観察するようにしている。

実際、努力して何かを成し遂げてもその自信や体験がすでに心に刻まれたつらさや寂しさの埋め合わせにはならないだろうしな~。残念なことですが……。であれば、良く休むまで。一日7時間は寝たいな。

なんだか突然ダラダラ書いてしまったけれど、何を頑張ろうかと検討する時、反対に何を頑張らないかも決めるといいかもしれません。来年もいい年にしたいな。いっぱい眠ったりしなきゃ。

●短歌

心臓に富や名誉を詰め込んでみてもとても元には戻らじ






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