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私たちはもう、娯楽にいじめやいびりやレイプが必要ない世界に生きているークイーンズ・ギャンビット(Netflix)

 Netflix配信のクイーンズ・ギャンビット(全7話)を観た。

 これはチェスの話ではあるが、チェスを題材にした、シスターフッドとフレンドシップとフェアネス、そして依存症からの回復の物語である。

 舞台は1950-60年代。天才的なチェスの才能を秘めた孤児の少女が、処方薬やアルコールへの依存を抱えながら、男性優位のチェス界でのし上がっていくーーこれだけ書くと、これまで繰り返し描かれてきた、破滅型天才主人公の成長譚である。

 しかし、本作が新しいのは、黒人差別や女性差別、孤児の不遇、依存性のある向精神薬の問題などを社会の不条理としてきちんと取り上げながら、それらが過剰に悲惨に描かれることなく、安心して観られる描写に仕上がっていること。

 <ネタバレは避けたいので詳細には書かないが、本当にまっさらな状態で観たい人はこれ以降を読まないで欲しい>


 具体的には、実母が主人公を虐待したりしないし、義母が主人公をいびったりしないし、女友達が主人公のロッカーにコーラをぶちまけたりしないし、男たちは彼女をレイプしたりしない。

 母は主人公を愛している。さまざまなことに追い詰められてしまっただけで。
 義母も追い詰められた状況で、主人公とタッグを組み、支え合う関係になる。
 女友達は孤児院出の主人公のダサさを冷やかしたりバカにしたりするが、結局それらも彼女たちを縛る環境ー“若い綺麗な女が良い“という価値観ーの結果であり、ものすごくひどいことはしない。
 男たちはチェスで彼女に打ち負かされる。最初こそ、ほとんど女性のいないチェス界で、少女の主人公はナメられるが、彼女の実力を目にした男たちは次第に彼女をサポートする役に回る。レイプして彼女を“打ち負かして“やろうとかいう男は現れないし、男だらけの大会に出ても性的な冷やかしの言葉はほとんど飛んでこない。性行為は必ず同意の上で行われる。

 実は、すっごいヒヤッヒヤはする。「あの」シーンが出てこないか・・・「これまでの」古典的な作品ならば、その後に虐待、いびり、いじめ、レイプといったひどい暴力が必ずと言っていいほど出てくるようなシーンに。しかしその冷や汗は杞憂に終わる。主人公はそんなことを経験しない、する必要がない。

 私たちはもう、物語に、娯楽に、お決まりのいじめやいびりやレイプなどの暴力が必要ない世界に生きているのだ。

 もちろん、時代背景を考えれば、そういった暴力が満ちている方が「本当らしい」のかもしれない。しかし、ドラマは現代に作られて現代の人たちが観るものであり、何より娯楽である。暴力を娯楽にしなければならない時代は終わったほうがいい。逆に、なぜ私たちはあれほどまでに暴力描写を娯楽として享受させられていたのかと思うほどだ。

 暴力自体の不条理や社会問題をテーマとして描く作品もなくてはならないが、それは“それ“として真摯に描かれるべきである。

 そして、ドラマによって作られるストーリーに私たちが慣らされる以上、それは現代において望ましい価値観や関係性を目指すものであった方がいい。

 精神的に不安定な母親は娘を虐待するものだとか、孤児院の地下室に少女と男性が二人きりでいたらレイプされるものだとか、義母は孤児をいびるものだとか、女同士はキャットファイトを繰り広げるものだとか、男の世界に女が乗り込めば性的な冷やかしを受け、レイプされて“思い知らされる“ものだとか、そういった「常識」は、現代の私たちには、もう要らない。

 物語においても現実においても、いまこの現代に生きる私たちが築いていくべきものーー年齢、性別、人種、国籍等にかかわらず、すベてに関して敬意ある関係ーーが、このドラマには描かれている。

 私はまず、これを60歳の男性脚本家(スコット・フランク)が書いたということに驚いた。何歳であろうが、男性であろうが、こういうものが書けるのだ。「男には“本能“があるから女と見ると“我慢ができなくなる“」のだとか訳のわからないことをのたまう輩には、この脚本を丸めて突っ込んでやりたい。


 依存症の描写については、正直これからの課題だろう。近年、依存症を扱った作品は増えているし、当事者の手記も多く発表されている。原作者のウォルター・デヴィスも薬物依存症に苦しんだ経験からこの物語を書いたという。

 主人公は、最後には「自分には薬物もアルコールも必要ない」と悟るのだが、処方薬は特に、序盤では感覚を鋭敏にしチェスの世界に没頭するために役立つ薬のように描かれている。ほとんどの人は薬物にメリットがあるから使い始めるわけで、薬物のメリットとデメリットを長期的に描いている点ー初期にはメリットが勝ち、続けているうちにデメリットが手に負えないほど大きくなるーは評価できる。
 しかし、薬物によってチェスの才能が開花する「かのような」描写(最終的には、そうではなかったと明かされるものの)は少々「古い描かれ方」とも言える。主人公がアッサリ悟って薬物を捨てるのも少々「古い」感じはする。
 
 実際には、これだけ幼少時から薬物に依存していれば、脳の発達は大いに阻害されうるし、体も無事では済まないだろう。チェスや人生の困難な場面を薬物やアルコールを使うことで「パス」してきた経験が成長期にあり、それ以外の方法を知らないことで、精神的な成長も阻害されてしまう。回復は容易ではないはずだ。

 主人公はチェスの非凡な才能とチェスへの愛、そして周囲のサポートによって依存症を克服するかのように描かれている(ように見えてしまう)が、依存症からの回復は「やめたら上がり」ではなく、「生涯やめ続ける」プロセスである。20代で世界チャンピオンに輝くところでこの物語は終わってしまうが、本当の苦しみは「その後」ーー若くして頂点に立ち続けるプレッシャー、頂点から引き摺り下ろされる不安を抱えながら、長すぎるその後の人生において薬物やアルコールをやめ続けるプロセスに存在し続けるだろう。

 サポートしてくれる女友達も初恋の人もチェス仲間もいるしきっとダイジョウブ!みたいな終わり方は、さわやかでいいのだが、依存症に関しては少々明るすぎるように感じてしまった。

 とはいえ、この作品の高評価は妥当すぎるくらいだ。特に時代を映し出す魅力的なセットや衣装、陰影ある撮影、美しい画面構成、そして何より主人公役のアニャ・テイラー=ジョイの好演(彼女の獰猛な兔のような目つきが魅力的すぎる)!
 長期的に見れば、ドラマの常識をひっくり返す分岐点ともなりうるだろう。

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