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小説「天上の絵画」第二部

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渡井蓮は頭を抱えていた。
 絵のタイトルが思い浮かばない。
 
 英司のマンションから歩いて帰宅したはずだが、その時のことをほとんど覚えていない。気がつくと、自宅の玄関に立っており、その手には黒いキャンバスバッグがしっかりと握られていた。
 部屋に入り、慎重にバッグを開くと、中にはあの絵が入っていた。場所が変わっても、その神々しさは衰えることがない。むしろ、本当の持ち主のところに戻って来た喜びで、一段と輝いて見えた。
 蓮は、部屋の隅に絵を立てかけると、床に体育座りをして、膝の上に顎を乗せた。

 これからどうしようか…。

 こうして絵を眺めているだけでも十分満足だったが、この感動と幸福感を独り占めしてもよいのだろうか。この絵はもっとの多く人に、見てもらうべきではないか。昔を絵を描くだけで十分だった。だが、大人になり社会に出たことで、少し視野が広がったのかもしれない。本来の絵の価値は、描くことではなく多くの人の目に触れることではないのか。そしてこの絵は、間違いなくそれだけの価値がある。そのために自分にできることは何か。
 思いついたのは、この絵をコンクールに応募することだった。応募すれば審査員はもちろん、賞を受賞できればメディアやネットを通じてより多くの人々が目にすることになる。
 今、自分がするべきことは、これではないか。
 蓮はそう確信した。

 絵を誰かに届けたいとここまで強く思ったのは、初めてのことだ。蓮の中で何かが大きく変わり始めていた。
 今回の出来事をきっかけに、自分は大きく成長したのではないか。思わず誇らしげな笑みがこぼれた。

 早速ネットを検索すると、多くのコンクールや賞がヒットしたが、突然、多くの情報が視界に飛び込んできたため、蓮は混乱した。順番にコンクールの詳細を確認していったが、次第にめんどくさくなり、検索結果のトップに出てきたコンクールを適当にタップした。表示された応募要項を上から入力していると、半分を過ぎた辺りで手が止まった。作品のタイトルを入力しなければならない欄があったからだ。しかも『必須』と書かれており、空欄では入力を完了させることができない。

 「タイトル…」

 そういえば、この作品のタイトルを聞いていなかった。
 蓮は頭を抱えた。この絵のタイトルがわからない。
 これまでは描きながらぼんやりとタイトルのイメージが浮かんできたり、湯澤にアドバイスをもらったり、一緒に考えてもらっていた。だが今回は、そういうわけにはいかない。いっそのこと『無題』で出品してしまうのも手だが、この絵には合わない気がした。
 
 どうしようかと逡巡しながら、ぼんやりと絵を眺めていると、ある日の湯澤との会話を思い出した。
 あれは小学校卒業を間近に控えた冬の放課後だったはずだ。いつものように絵画教室を訪れると、珍しく湯澤が怒った顔で、一枚の絵を前に仁王立ちしていた。「どうしたの?」と話しかけると、湯澤は「この絵がね―」と眉間のしわを深くした。

 その絵は、湯澤の知り合いが所有しているものだった。知り合いの話では、亡くなった祖母の家を片付けている時に、物置の奥から出てきたもので、鑑定士に鑑定してもらったところ、そこそこの値打ち物であることがわかり、事業の失敗で資金難に陥っていた湯澤の知り合いは、その絵を売り出すことにした。すると、すぐに買い手見つかった。しかし、いざ絵を渡すという時になって、その買い手が難癖をつけてきた。「絵の損傷が激しいから、もう少し安くしてほしい」金に困っていた知り合いは、一円も安くするつもりはないと突っぱねたが、買い手は「だったら買わない」の一点張りだった。知り合いは仕方なく、絵を修復することにしたが、依頼した修復士が素人同然の技術しか持ち合わせておらず、その絵は修復されるどころか、全く別の絵のように塗り替えられてしまった。なすすべがなくなった知り合いは、ここにきてようやくプロである湯澤に相談を持ち掛けた。
 「それがこの絵だよ」湯澤が腕を組み天を仰いだ。
 子供の落書きのような稚拙な絵が置かれている。以前の絵を知らないが、それが芸術作品であったとは到底想像できなかった。
 「こんなのどうしようもないよ」首を小刻みに左右に振った。「素晴らしい絵だったのに…」失望と憤りが湯澤の口から漏れた。
 普段は表に出さない怒りの感情が、ひしひしと伝わってくる。
 「知ってるの?」
 湯澤がゆっくりと顔を向けた。
 「僕が画家を目指すきっかけになった絵だよ」
 湯澤がこの絵を初めて見たのは、六歳のころ父親に連れられ、近所で開かれた展覧会に行った時だった。
 「美しくて全てを包み込むような包容力と湧き上がっている感動。あの時の感覚を今でも覚えてる。僕もこんな絵を描いてみたい。心の底からそう思ったんだ」
 昔を思い出しているのか、湯澤の頬がわずかに上気し、言葉に興奮が混じる。
 「蓮君にもそんな経験があるだろ?」
 「あっ…うん」
 あの頃の蓮にそんな経験はなかった。自分の描いた絵が全てで他人が描いた絵には、全く興味がなかったが、湯澤の迫力に押され、思ってもいないことをつい口にしてしまった。
 気持ちの高ぶりを抑えきれなくなった湯澤は、その絵の魅力を熱く語り始めた。
 「今の今まで、これ以上の絵に出会ったことはないよ」
 虚空を見つめた湯澤の瞳が少年のような輝きを帯びた。普段見たことがない湯澤の姿に驚いたが、絵が好きな純粋な少年に戻った湯澤に妙な親近感を覚えた。
 「まさしくこれは僕にとっての…『天上の絵』なんだ」
 
 「天上の―」バッと身体を起こした蓮は、スマホを取ると作品名の欄に『天上の絵画』と入力した。


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