「時間」談義に花が咲いた日
先日、歌舞伎町の飲み屋で「時間」に関する話をその場に居合わせた人たちとしました。その時は色々しゃべくった挙句「ふ~~ん」と思い過ごしていたのですが、改めて考えると「時間」とはいったい何だか訳が分からない。
所詮ここはnoteでしかないので、思ったことを整理しつつ、ここにまとめておこうと思います。きっとこの時間は無駄ではないはずです。
「時間」意識を持つに至る
そもそも、我が国においては明治以来鉄道が導入され、時刻表通りに運行する鉄道に人々の生活を合わせていくため、時計なるものが普及し始めたとどこかで習った気がします。そうすると、皆が同じペースで進む時計の針の下で同じ「時間」意識を持つに至ったのは、割とつい最近のことであったと言えるかもしれません。
こうして〇時〇分の共通意識が人々の中に成立し、人々が同じ「時間」の下で生きるようになったのだと思います。私の時間もあの人の時間も関係なしに、そこには客観的で唯一の正しいとされる「時間」が存在し、それが共通のものとして人々に受け入れられ始めたのでしょう。ある意味、近代的概念としての「時間」です。
「時間」区分に管理される
先で言う「時間」は近代的概念といいましたが、鉄道の運行という管理の必要な対象に使われているように、何かを管理するのに非常に都合がいいのだと思います。
ここから、学校の時間割や一日〇時間労働といった画一的で普遍的な「時間」区分が生まれていったのではないでしょうか。あくまで私の想像ですが、それまでは日が出て日が落ちるまでとか、それこそ日がどれくらい傾いたかとか、そういったある種のアバウトさが介在している時間の中を人々は生きていたんだと思います。
しかし、近代的な「時間」という考えが遍く普及した結果、管理がしやすいという都合で定められた〇分、〇時間に従って人々は生きるようになったのだと思います。それは管理者側の都合でしかなくて、実態にはあまり即していなかったのではないかと思います。
一人一人足の速さが違うように時間感覚やペースは違うはずなので、同じ「時間」意識で管理するのはいささか無理があるはずです。中学校の制服が全員均一にMサイズしか支給されなかったら非難轟轟でしょう。
そして、そうした「時間」という考え、管理方法が、資本主義の極端な発展にかなりの寄与をしてきたと私は思います。我々は自然を科学の力で制圧し乗り越えてきたように、時間をも既に掌握したと思っているのかもしれません。また、時間とは人間に用いられる客体的存在であり、無限の可能性を生み出す富の源泉の様なものとも思っているのかもしれません。ですが、本当は我々こそが知らず知らずのうちに「時間」に支配され、「時間」に存在を規定されている様な気がしてならないのです。
「時間」を乗り越えたその先へ
「時間」があることを当たり前と感じ、「時間」に自らを当てはめていくことに一切の疑問を感じない、それが現代社会を生きる人々なんだと思います。しかし、「時間」とは考えれば考えるほど不思議で、そこには本来何も存在はせず、ただ「時間」と人々が名付けた何らかの流れのようなものが切れ目なく続いている、もしくは眼前に生成され続けているだけではないでしょうか。もしかしたら、我々が認知している「現在」は感覚器官を通過してきた過去でしかないから、「時間」というのは意識的には過去の堆積でしかないのかもわかりません。「現在」がどうなっているのか、「時間」が「現在」のその先にまで続いているのかは、過去しか認知しえない我々にとって分かるはずがありません。
という訳で、先日酒を飲みながら話していた時も「何もわからないな、時間なんて」という具合に、結局は半ばあきらめムードで「でも今楽しければよくね??」と酒をさらに飲んでいました。そうですね、今を楽しんでいると思えるような主観的時間を多く過ごすことが、近代的「時間」に対抗する一番手っ取り早くて有効な策なのかもしれないと、その場では思いました。
恐らく人類は未だ「時間」というニューエイジに対して有効な手立てを打つことができず、「時間」の思うがままに管理されている状態なのではないかと思います。「時間」は悠久の流れのように見えて、その実は極めて近代的でエンジニアリング的で人工的な概念でしかないと、私は思います。
私は、とりあえず酒を飲みに行こうと思います。
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