#384C|なぜ恥ずアフター|自分には何もできなくとも

今日は1日休みにした。なんというか、身体もだが心も一杯で動けないような日だった。午前中は東京で出た洗濯物や部屋の掃除などの家事をした。昼は寝て、夕方に珈琲を淹れて本を読み、その後かんたんな食事を作って食べてから鍋と皿を洗った。夜は1日をふりかえる会とTC実践会に耳だけ参加し、noteを書いただけの1日。これから風呂に入って寝て、明日から営業再開。


「なぜ読まれるのが恥ずかしいのか」アフター

昨日「なぜ読まれるのが恥ずかしいのか」という記事を書いた。読んでくださる方がいることはとても有り難いのに、「どんどん読んでください」とはなぜ言えないんだろうかと、あらためてまとめてみたのだった。

公開した記事はバージョン2で、まず最初に頭で考えた「"こう"だから私は読まれるのが恥ずかしいのだろう」と結論ありきで書いたバージョン1は、読み返してみると嘘だと気づいて書き直したのだ。

頭の中で考えているだけだったならその「嘘」はわからなかったのはもちろん、書いたあとに「本当にそうか?」という目で読み返さなかったなら、やっぱり「なんとなく正しそうな結論」で終わっていたので気づかなかった。

頭の中を書き出してみるだけでも発見はあるが(ゼロ秒思考のA4メモ書きとかでね)、それをおおやけの場に出すことで(noteの記事にするとかね)、さらに一段深くなる。やっぱり発信するというのはいいなあと思ったと同時に、このnoteはもう自分の「趣味」になっているのかもしれないなと感じられた。

そもそもこういうことを考える機会になってくれたsマリさんtナシンさんuさぼうさんに感謝。


ひきつづきの心がけとして

こうして時おり読んでくれている人にも思いを馳せつつ、ひきつづきこのnote活動の基本姿勢は「他者の目、顔色を気にせずに書く」こと。それを100%に持っていくことを心がけたい。

逆に、別の場所では他者を慮る活動もしっかりと行うことで、どちらの充実も広げていけたらいい。


自分はなにもできなくとも

昨晩はまた体調不良のぶりかえしのようなものがあって、明け方までウンウンうなされながら過ごし、今日は休みを取った。

それでもしんどさ自体は東京にいた時の方が強くあったので、あらためて毎日を無事にやり抜けてよかったなと思う。とくに3/3(日)のタスクシュート交流会の日は一睡もできず、うなされながら朝日が出た時の絶望感たるやひとしおであったが、当日のイベントは運営のみなさんのご協力と神の采配、そして参加者さんのおかげさまで、うまく運ばれた。

出版記念パーティーで語られた「1人では何もできなくても半世紀生きてこられた」という佐々木さんの言葉が浮かぶ。イベントで私はとくに何かが出来たわけでもないが、事はうまく運ばれたのだ。佐々木さんが言わんとしていることはまた違う気もするが、しかしまるで的はずれなものでもないように思う。

思えば現在が人生で1番多くの仲間に恵まれている。自分にはできないことをできる人が、自分だけががんばらずとも助けてくれる人が、周りにたくさんいる。そういうことを実感できたのが3/3のイベントで、「ONE FOR ALL, ALL FOR ONE」を感じられた貴重な機会だった。

あのイベントを主催したことで、私は人生観が少し変わった。①自分の未熟さがどれほどかという認識がハッキリしたことと、それをクリアするために必要そうな努力量を感じられたこと。②しかし未熟さと成せるモノゴトにはそこまで関係はないということと、自分の努力に依存せず目的に向かって人を頼ることの実践と実感。

この2点から、なんだか少し人生の「達観度」のようなものが上がったのだった。(正確な表現ではない気がするが、この感覚をどう表せばいいかわからん)


自分の領分に関してはしっかりと磨きその役割を果たしながらも、プロジェクトなどの達成のための全体の働きとしては"自分(エゴ)"を抜いて考え動く。自分というものをいつでも握りこんでいると何もできないということをよく感じたし、手放してしまってもモノゴトは進むということを体験できた日だった。

関わってくれているメンバーが「いい」ということは前提として、そうして安心して任せつつ進められるプロジェクトというものには、安らぎや幸せや感動を感じられるのだなと思った。

これまでプロジェクトにはいつも張り詰めた緊張感や必死の努力が必要だと、自覚なく思っていたふしがある。しかしある程度ラクに、ラフに、ダメなところはダメだったというのも出しながら進めたっていいのだよな。それも行き過ぎるとNGだろうが、いい塩梅を取りながら各プロジェクトを運営していけるようになりたい。

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