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静かできれいなディストピア

最近SNSを見ていて、「ミュート」という機能が非常に気になっています。
不快であったり面倒だと思ったフォロワーをそっと非表示にして視界に入らないようにする。
まだ直感にすぎないのですが、僕はこれがこれからの社会を象徴的に表しているような気がしています。

「きれいな社会」

僕はここ数年の動きを見ている中で、漠然とこんなキーワードを思いつきました。
「きれい」という言葉を使うとポジティブに聞こえますが、むしろ逆で、「汚い」「ずるい」「すねに傷がある」みたいなものを極端に嫌うというようなイメージです。
そしてそういった「過去の"汚れ"」は、これだけSNSが発達した社会では一生記録として残り続ける。
さらに、そういった人は「ミュート」という形で自然と避けられていく。
ここでいうミュートはSNSの機能としてのそれにとどまりません。
僕たちはミュートという機能を自然と使うようになったのと同じように、自然と面倒くさい人や事象に対して、それと積極的にぶつかり合う事はなく、摩擦を経験しながらわかり合おうとするでもなく、まして受け入れようとするでもなく、そっと距離をとって「臭いものに蓋をする」ようなスタンスを持つようになりつつある気がするのです。

「信用社会」というディストピア 

10年代には、しばしば「信用」なる言葉がもてはやされてきました。
「彼はお金持ちではないが、信用持ちだからいざという時に人もお金も集まるのだ」
「1番いいものはお金では買えない」
「社会人にとってもっとも大事なのは信用の構築だ」などなど。
これからは「評価経済だ」なんていうのもそうでしょう。
たしかにその通りだと思いますし、そういう社会の良い面もあるとは思うのですが、とかく10年代はその正の側面にばかり注目されすぎてきたような気もします。

20年代は「信用」というものの煩わしさや胡散臭さみたいな負の側面が僕たちに突きつけられつつあるような気がするのです。
それはかつての村社会にあって、僕たちがウェブの登場で脱却できたと思い込んでいたものに近い気がしています。
僕たちは土地や血縁などさまざまなしがらみに縛られていた時と同様に、そこに存在していた貨幣以外のやりとりの正の側面を享受して、負の側面も知り始めたと思うのです。

ディストピアの生まれ方

ただし異なるのは印象の持ちようです。
かつての村社会では助け合いだとかおすそ分けだとかといった信頼で成り立つ「正の側面」は当然のものとして恩恵を感じない一方、伝統や風習、人間関係といった「負の側面」ばかりを認識していました。
一方で、ウェブが生まれ、SNSが発達した現代では、信用というポジティブな側面ばかりがスポットライトを浴び、ネガティヴな側面はあまり積極的に指摘されずにいます。
そうなると僕たちは後者を「当然のもの」として受け入れていくことになる。
その結果生じるのが、過度に空気を読むことや、他者の目を気にすることであり、ムラの空気を作る側の視点に立てば、それは「ミュート」のような機能を使用する姿勢になるのだと思うのです。

信頼のレバレッジが効く社会というのは、言い換えれば汚点のレバレッジも高くなる社会であるといえます。
信頼の価値が増えてきたからこそ、汚点を残す事を積極的に減らしていかなければならない。
それが僕がいう「きれいな社会」です。
まだ全然まとめられているわけではないので非常にざっくりとした内容ですし、論理の飛躍もすごい(というかそもそも論理として成立していない)内容になってしまいましたが、ジャストアイデアとして、ここに残しておきたいと思います。(というか、薄口コラムは元々そういうコンセプトですので)か

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