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【小説】のけものけもの(2)

ひとまず鎌鼬かまいたちの椎菜が雪華を保護するということで話が落ち着き、人間に詳しい天狗を訪ねに一行は隣の山、尾曾おそ山を目指す。そこで出会ったものとは?

上記の話から続く少女と鎌鼬のでこぼこ親子話。

 車内には延々と喋り続けるヤタの声と言葉少なに相づちを打つ椎菜の落ち着いた声、乾いた海苔の音で満ちていた。工場で生産された握り飯の味は大昔に母が握ってくれたおにぎりよりも温かみはなかったが、計算しつくされた美味さは空きっ腹にはよく沁みた。塩気のある鮭と甘い米を咀嚼しながら、雪華は二匹の会話を聞いていた。
 ヤタはくるくる回るつむじ風のごとく話題を変えていく。内容はほとんど理解できなかったが、次々に湧いてくる話に耳を傾けるのは存外心地が良かった。
 手の中の握り飯があと一口だけになった。腹に物が入ると眠気が訪れる。ガタガタ揺れる車体ですら雪華を夢の世界に誘った。

「そういやあんた名前は?」

 半分眠りの世界に足を突っこんでいた雪華は瞼を押し上げた。

「雪華。雪にむずかしいほうのはなで雪華」
「へえいい名前じゃないか。きれいでぴったりだよ」

 車から声が上がる。大三郎のおっとりした声だ。

「ちょっとまた尻尾が大きくなっているよ。さっさとしまいな!」

 ヤタが鋭く注意すると車体が跳ねた。先ほどまで上機嫌に揺れていた尻尾は落ちて、雪華からは見えなくなってしまった。

「それはあんたの母親がつけたのかい」
「うん。わたしがうまれたとき、ふわふわの雪がふっていたからだって」

 ふうん、と興味なさそうに相づちを打って椎菜は前を向いてしまった。何か怒らせてしまっただろうかと雪華は隣を仰ぎ見たが、彼女はへの字に口を結んだまま、窓ガラスに手を伸ばしてくる枝々に視線を投げたままだ。
 だが、ヤタが再び雑談に興じれば先ほどと同じトーンで返事を返す。どうやら腹をたてたわけではなさそうだ。
 雪華は密かに力をぬいた。同時に遠ざかったはずの眠気が再び訪れて、あっという間に雪華の意識は夢の世界に落ちていった。


 ガタンと車が飛び跳ねた衝撃で目が覚めた。
 いつの間にか霧が立ちこめて辺りは完全な白に覆い尽くされている。と、思った瞬間、突如視界が晴れた。
 切り立った崖に一本の松。崖の下に川でも流れているのか、微かに水の音がする。空気は一点の曇りすらなく、恐ろしいほど清らかだった。その松の下に大小二つの影が座っていた。
 雪華たちは車から出、変化していた大三郎もポンと術を解いた。

「今から会うのは私らが猿じいって呼んでる天狗さ」
「テングなのにサルなの?」

 耳打ちしたヤタに雪華は聞き返した。たしかテングという生き物はどちらかと言えば鳥に近かったはずだ。薄っすらとした記憶を手繰り寄せても、やはりサルの要素はない。

「ああそれはね、そいつの名前が猿彦っていうからさ。かの猿田彦命にあやかってつけた名前だそうだよ。贅沢な名前だよねえ」

 サルタヒコノカミというのは初めて聞く名前だが、相当偉い誰からしい。それからとってつけたのならばずいぶん御大層な名前なのだろう。
 とりあえず雪華はふうんと相づちを打っておいた。

「久方ぶりの客かと思えばお前たちか。して、大三郎はなぜ人の姿をとっているのだ?」

 大きい影が振り向いた。それは白髪の老人だった。雪華は老人の姿を認めるや否や目を見開いた。彼は時代劇でしか見ないような古臭い恰好をしていたからだ。
 ゆったりとした鈴懸すずかけに黒の結袈裟、頭には角ばった小さな椀のような帽子を被り、傍らには木からそのまま削りだしたかのような素朴な錫杖が立てかけてある。
 奇妙なのは男の服装だけではない。口はヤタのようにくちばしになっていて、その下に豊かな顎髭が風にそよいでいる。背中には黒い翼がついていた。
 黒い光彩は彼の術か、はたまた雪華の見間違いなのか時おり金に光る。
 その不思議な瞳と目が合った。

「ほうほう人の子か。珍しいのう。お前たちのうちの誰かが気に入ってさらいでもしたか」
「違うよ猿じい。訳あって親元に返せないのさ」
「ヤタさん」

 雪華はヤタの尾羽に手を伸ばした。その手が触れる寸前でヤタが振り返った。

「わかっているよ。あんたの母親を悪くいうつもりはないから安心おし」

 どこまでも見通すような目で射抜かれれば舌の先まで出かかった言葉は逆戻りする。
 事実、母親のことを貶すつもりであれば抗議の声を上げていただろう。周囲の人々には鬼のような女でも、雪華にとっては唯一の肉親なのだ。今は怒鳴り散らして手を上げてくるようになってしまったが、昔はよく抱き上げてくれたし、今でも酔っ払うと「ごめんね雪華。私にはあんたしかいないのよ」と泣いて縋ってくる脆くて優しい人なのだ。
 ヤタはやたらと難解な言葉を使って事情を説明したので、雪華には一割も理解できなかった。しかし老人には理解できたようでだんだんとその顔が険しくなってきた。

「なるほどな。それはたしかに親元には返せんなあ。だが住む場所はどうする。あんまり元いた場所に近ければこの子の知己も多かろう。戸籍やら細々としたことは儂が何とかしてやれるが、人の心はどうしようもないぞ。突然保護者が変われば不審に思う者も出てくるに違いない」
「でもこの子は車で私たちの山まで連れてこられたんだ。ここには住んでいないかもしれないよ」
「だが近辺に住んでいることには違いはない」

 大三郎が口を挟んだが、鋭く言い返されてぐっと押し黙った。

「けど親のことを警戒して森で育てるわけにもいかないだろ。この子は人間だ。獣じゃない。かと言ってあんまり遠い地に行くのは嫌だね。なんたって私が縁もゆかりもない土地にガキ一人抱えていかなきゃなんないんだい。知り合いもいなきゃ、下手すりゃどっかの妖の縄張りに足踏みこんじまうかもしれないんだよ」
「まあまずはこの子の家の位置を探ってみよう。状況によってはそれほど遠方に居を構えなくても済むかもしれぬ」

 老人は立ち上がると、雪華の前までやってきた。皺の刻まれた皮の厚い手が雪華の額に触れる。体をこわばらせた雪華に老人は微笑んだ。孫を見守る祖父のような笑みに自然と余計な力がほどけていく。
 額に置かれた手からじんわりと熱が伝わって頭全体に広がったが、それは春の日差しと同じ温度で決して雪華を傷つけるものではなかった。
 やがて手を離した老人は満足気に笑った。

「なるほど、なるほど。大体の場所はわかった。そうさな、まだ断言はできぬからヤタには協力してもらうが、まあそこまで労をかけずとも良さそうだ。ミケのところにでも身を寄せればいいんじゃないか?」
「はあ? あのオカマ猫に貸しをつくれってのかい!? 死んでもごめんだね」

 椎菜が吼えた。だが老人の目は凪いだままだ。

「椎菜、そう言うな。人の子を育てるというのはお前が想像している以上に苦労する。頼れる者には頼っておいたほうが良い」
「へえ経験談かい?」

 椎菜が鼻で笑ったそのとき、木の根元でうずくまっていた影が顔を上げた。

「なんじゃなんじゃ、気持ちよく眠っているときにうるさくしおってからに……って人間!? おい、こんなところに人間のわらべがおるぞ! 猿じいなんとかせい!」

 それは胴の細い生き物だった。一瞬椎菜と同じ生物かとも思ったが、大きさは猫ほどであるし、その毛は褐色で、何より全身が濡れていた。その生き物は水かきのついた手で雪華を指さし喚いている。

「ええい、こうなったらこの権治郎めが相手だ。貴様なんぞにやる毛皮は毛一本すらありはしないからな!」
「なんでけがわ? ぬれているからいらないよ?」

 雪華は首をかしげた。ふわふわの毛皮なら椎菜や大三郎で間に合っている。むしろ水でしっとりと重くなった毛に触れていれば、体温を奪われてしまいそうだ。
 春とはいえまだ夜は冷えこむ。雪華は自分の名前にもなった雪は好きだったが、寒いのは苦手だった。薄い布団にくるまってもなお忍びこむ冷気は雪華が目を逸らし続けている孤独を浮き彫りにするからだ。

「な、なんと……」

 権治郎は顔を真っ赤にして小刻みに震えた。他の者は顔を俯けたり背けたりして、二人を見ようとしない。その体は震えていたが、なんとなく権治郎のものとは種類が違う気がした。

ハーハッハッハ!

 ふいに澄んだ空気を太い声が破った。伸びやかでどこまでも飛んでいきそうな笑い声だった。突然の大声に驚いて鳥たちが飛び立つ小さな点々が見えた。
 それは老人から発せられていた。どこにそのような気力があったのか、乾いた体を揺らして大声で笑っている。それを皮切りに椎菜たちも吹き出した。

「ええい笑うな! 笑うな! 何がおかしい!」

 権治郎は顔から湯気をたてて短い手足を振り回すが、一向に笑い声が止む気配はない。

「何がおかしいってそりゃ笑うに決まっているじゃないか。あんなに威勢良く啖呵切ったのにさあ、くく、まったく相手にされてないんだもの。ああ、雪華あんた最高だよ! もし腐りかけの肉を食っても腹を壊さない強靭な胃がありゃ、私が手づから育てたんだけどねえ」

 ヤタがひいひい引きつった笑い声を上げながら言った。笑い過ぎて呼吸困難を起こしそうな勢いに雪華は心配になってきた。

「ええい、この大妖怪、かつては人を騙し、恐怖に陥れたかわうその権治郎を虚仮にするとはなんたる無礼な娘よ。そこになおれい。その細い首噛みちぎってやろう」
「嘘もほどほどにしな。あんたなんてせいぜい人の声真似くらいしかできなかったじゃないか。人を嚙み殺すどころか驚かすのにも苦労したってのにさ」

 椎菜がにやにやと笑った。余計にカワウソは手足を振り回しまくしたてたが、古めかしい言葉で雪華には全く意味がわからなかった。
 きょとんとしている雪華の表情がまた気に障るのか、カワウソはより一層激しく罵り唾を飛ばす。しかしやはり雪華には意味が通じないので、ますます雪華は困惑し、周りは腹を抱えて笑い転げ、権治郎はさらに怒りの炎を上げる。しばらくその不毛な円環は回り続けた。

「まあそう怒るでない権治郎よ。罪のない童に八つ当たりするのも大人げなかろう」

 ようやく笑いがひと段落した老人が声をかけた。権治郎は天狗を疑念のこもった目で見上げた。

「しかし……」
「それにお主の仲間を攫った無礼者のようにお主を捕らえようともいじめようとも思っておらんだろう。むしろ興味なさそうであるしな」

 先の雪華の発言を思い出したのか、最後の言葉には揶揄の響きが混ざった。たちまち権治郎の口が曲がったが、結局その口から出てきたのは嫌味ではなかった。

「ふん、まあよいわ。そこな童、この尾曾山を流れる水瀬みずせ川の主、権治郎をとく敬うがいい」

 ただし胸をそらして言い放つ態度は非常に尊大である。なぜこの小さい獣はこんなにも偉そうなのだろうか。川の主というものはそんなに偉いものなのだろうか。

「だからたかだかカワウソが偉そうにしてるんじゃないよ。大体、あんたが水瀬川の主ってのも今日初めて聞いたんだけどね」
「それはお前が知らなかっただけよ椎菜。儂は生まれたときから魚ども、水鳥どもに、このような貴き御方は見たことがありません、貴方こそがこの川の主に相応しいと平身低頭頼みこまれてやっているのよ」

 口から出まかせばっかりだね、と椎菜が低い声で吐き捨てた。背後ではヤタと大三郎が「そんな話聞いたことあるかい? 私はないけどね」「私もないなあ。情報通のお前が知らないなら、それほど有名な話じゃないのかもね」と、ひそひそ顔を寄せ合っている。
 再び権治郎の顔が険しくなったそのとき、ぱんと老人が手を叩いた。それほど大きな音ではなかったが、妖怪たちの口を閉じさせる威力を持っていた。

「とにかくだ。椎菜、人の世界で暮らす以上お前には名を与えねばならん」
「はあ? 偽名でも名乗れってのかい」

 椎菜が眉をひそめる。老人は首を振った。

「いいや言い方が悪かったな。姓をつける必要があると言いたかったのだ。人として暮らすのならば家名も必要になろう」
「つまりただの椎菜から何某家の椎菜になるってわけかい。いやあ椎菜も出世したねえ」

 ヤタがからかう。椎菜はそれを冷ややかに一瞥しただけで、後は視界の端にも入れたくないのかヤタがいる方向とは真逆を向いた。

「椎菜は鎌鼬だからなあ、何がいいかのう……」

 ぶつくさと苗字候補を並べていく老人を椎菜が呆れた目で見やった。

「名前なんて何でもいいじゃないか。適当に思い浮かんだ字を組み合わせるでいいだろうよ」
「そういうわけにもいかん。家名は重要だぞ。それにお前だけの問題でもない。半端な名をつけたらその娘が可哀想ではないか」
「そうだぞ。儂の名前は親がそれこそ伊勢神宮に参詣してな、そこの神主に名をつけてもらったのよ」
「あんたは黙ってな権治郎。どうせ噓八百の出鱈目しか言わないんだから」

 椎菜が尾を地面に叩きつけた。乾いた音がして権治郎は鼻白んだが、怖じ気づいたことを悟られまいと椎菜をねめつけた。

「なっ、嘘ではないぞ。儂の親は本当にな」
「チビのカワウソがどうやって伊勢まで行くってんだい。人間の足でもかなりかかるってのにさ。馬鹿も休み休み言いな」

 が、その言い訳は最後まで続く前に無情な正論が叩き折った。カエルが潰れたような声を出して口をつぐんでしまった権治郎の背はいっそう小さく見える。雪華は思わず慰めをかけてあげたくなった。
 と、そのとき老人がぽんと手を叩いた。

「おお、そうだ。飯綱いいづな、飯綱はどうだ? かつて信州にいた管狐の名と同じ漢字で読み方は一字違うだけだが、同じ獣同士、鎌鼬のお前にはぴったりであろう」
「私は信州に縁なぞないんだがね」
「いいじゃないか。飯綱椎菜に飯綱雪華。なかなか似合うと思うね」

 けっと吐き捨てる椎菜とは対照的に大三郎がにこやかに拍手した。

「じゃ、私は仲間たちの声をかけとくから猿じいは椎菜が溶けこめるように必要な手続きをしておくれ」
「おお、それは任せておきなさい。役所の目を誤魔化せんほど老いぼれたつもりはないからのう」

 深く頷いてみせた老人は雪華に視線を移すと、小さく手招いた。雪華はちらと傍らの椎菜を見上げた。椎菜は軽く顎を動かした。雪華はそれを許諾と受け取って、おずおずと老人に近寄った。
 老人は微笑みを深くして雪華の頭を撫でた。乾燥した皺だらけの手はやはり温かった。

「椎菜はああ見えて面倒見がいいからの、そう怖がらなくても良い。幸せにおなり」

 老人が雪華を見る眼差しは優しかった。祖父がいるならばこのような感じだったのだろうか。雪華は目を伏せて、その手が己の頭を慈しむのを受け入れた。

「ちょっと猿じい、変なこと吹きこむんじゃないよ」
「そうだぞ。椎菜は見かけ倒しだからな、儂と違って」

 椎菜が口を挟むと、続けて権治郎から野次が飛んだ。が、すぐに顔を青ざめて黙ったので、彼女がよほど恐ろしい顔で睨んだのだろう。

「じゃあ私はミケのところまでちょっと一走り行ってこようか。今日もあの廃寺で寝泊まりするのは雪華ちゃんは嫌だろう」
「一応使いはやったがな。ミケが上手くやってくれるだろうよ」

 老人が苦笑いを浮かべた。だが大三郎は既に行動を起こした後だった。ふくよかな体形とは裏腹に軽やかにその体が宙を舞う。あっと驚く間もなく、着地したときには既に人から四足歩行の毛玉へと変わっていた。

「それじゃ椎菜は準備が出来次第向かってくれ。ちょっと私が行って帰ってくるまで待ってちゃ日が暮れてしまう」
「そんなに急がなくてもいいよ。あそこ、うちのベランダよりずっといいから」

 だから気を遣わなくてもいいのだと伝えたのだが、彼らの顔は晴れるどころか曇天になってしまった。特に大三郎のたれ目が泣き出しそうに雪華を見上げるものだから、雪華は弁明さえ紡ぐことができなくなってしまった。
 風が吹く。青葉の香りをまとった春の風は、冷たく雪華たちの間を吹き抜けていった

「何をぼさっとしているんだい! 早くお行き!」

 ヤタが怒鳴った。はっと大三郎は飛び上がり、ちょこちょこと短い足をもつれさせながら草むらの中に消えていった。

「雪華、いくら今まで酷い環境に身を置いていたからってね、あんなこと言うんじゃないよ」
「なんで?」

 雪華にはなぜ皆がそれほど悲しい顔をするのかわからなかった。
 己の環境が周囲の「普通」とは異なることは薄々感じてはいた。だが雪華が普通より下の環境に身を置いていたとして、どうしてそれを皆が嘆くのかは理解できなかった。
 雪華は不幸な子どもではない。狭くて、隙間風が吹くアパートの一室。母と二人身を寄せ合っていたあの狭い世界は、かび臭い幸福で満ちていた。
 ヤタは雪華の質問には答えず、椎菜に向き直った。

「こりゃ相当骨が折れるよ椎菜。頑張んな」
「だから面倒みるだけって言ってんだろ。頑張るも頑張らないもないんだよ」
「建前はいいんだよ。あんただって世話してりゃ情がわくはずさ」

 椎菜はそれ以上答えず、無言でくるりと宙返りした。
 彼女の足が再び地に着いたとき、それはもう柔らかな毛に覆われてはいなかった。
 スニーカーに黒のジーパン、白いシャツにはでかでかと英字がプリントされ、ズボンと同じ色のジャージを身につけた一人の女が立っていた。唯一彼女が椎菜である証は太陽に反射してきらめく黄茶だ。この国では白い目で見られることも多い派手な髪色は、彼女によく似合っていた。

「人間になってみるとずいぶん軽い女に見えるのう椎菜」
「はっ、人にもなれない奴の僻みかい? 見苦しいね権治郎」

 権治郎が呟くと椎菜がせせら笑う。つり目できつい面立ちも相まって、気の弱い者であれば、そのまま尻尾を巻いて逃げ帰りそうな迫力だ。権治郎も気圧されたのか顎を引いて一拍言葉が出遅れた。

「……ふん、儂はあえてならんだけよ。同胞を殺した憎き者にどうして好き好んでならなきゃならん」

 椎菜の目が僅かに見開かれた。

「別に私だって好きでこんな姿とっているんじゃないさ」

 低い声で椎菜は唸った。嫌悪を凝縮したような黒い声だった。
 雪華の胸に北風が舞いこんだ。彼女は成り行きで雪華の世話を押しつけられただけだ。本来ならば世話を焼く義理も、そもそも人になる必要だってなかった。一夜だけだが暖かい寝床をもらった、おにぎりをもらった。これ以上の幸福を望むのはもう身分不相応だろう。
 母に誠心誠意謝りたおせば、今回だってきっと許してくれるはず。彼らに迷惑はかけられない。

「あの、ごめんなさい。今からでもじぶんで帰るから……」

 はっと二匹が雪華を見た。

「あんたたち、雪華の前で醜い争い繰り広げるんじゃないよ。雪華の教育に悪いじゃないか」

 ヤタが二匹を責めた。ばつの悪そうな顔で権治郎は謝罪を口にする。椎菜はため息をついた。びくっと雪華が体を震わせると、呆れた顔で雪華の頭に手を置いた。

「ガキが一丁前に気遣ってんじゃないよ。最終的に決めたのは私だ。ガキ一人のお守りくらい片手間でやってやるさ」

 乱暴に髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜられたが、なぜか嫌な気はしなかった。
 母とは全く違う椎菜の手。荒っぽくて何一つ手入れされていない手。それが在りし日の母と重なって、雪華は唇を引き結んだ。

「じゃ、そろそろ私らは下りるよ。猿じい、悪いけど下まで送ってくれないかい? 足もいなくなっちまったもんでね」

 ちらっと大三郎が入っていった草むらに目をやって、椎菜はにやっと笑った。

「それはもちろん構わんよ。たまには顔を見せにおいで」
「あんた、本当に年寄り臭くなったね」

 椎菜がやれやれと頭を振って、雪華に手を差し出した。
 マニュキュアどころかハンドクリームすら塗っていない手。恐らく湿った地面しか踏んでこなかったであろう手。香水臭い今の母の手にも、あかぎれをこさえていた昔の母の手とも違う歳相応の皺が刻まれた、しかし力強い生命が脈打つ手。
 しかしなぜそれを雪華の前に差し出しているのか。困惑した目でじっとその手を見つめていると、舌打ちが降ってきた。

「ああ、まったくまどろっこしいたらありゃしない。ほら、人間の親子ってのはこうするんだろ」

 椎菜は強引に雪華の手をとった。そのままずんずんと歩き出す。だが決して雪華が追いつくのに苦労するほどの歩調ではない。
 じんわりと温かい手をきゅっと握ってみる。振り払われることはなかった。

「まったく椎菜は本当に素直じゃないねえ。ああ、ああいうのを最近の人間の言葉じゃツンデレっていうんだっけ?」

 背後からヤタのからかいが飛んできたが、椎菜は鋭い舌打ちを一つしたきりで、そのまま歩を進めていく。木立の中を数歩進むうちに霧が濃くなった。
 視界が真っ白になったと思ったその次の瞬間には、木々の影は消え、代わりにコンクリートでできた四角の住宅が整然と並んでいた。
 振り返ると森の入り口が口を開けていた。日が差しこみ、土と木の枠によって道が整備されている。脇には大きく散歩コースの案内看板が突っ立っていた。
 雪華はぽかんと口を開けた。明らかに先ほどの森とは違う人の手が入った森だ。しかし案内看板に書かれた文字は同じ尾曾山である。唖然とする雪華の手をぐっと引っ張った。

「ほら行くよ。電車とやらに乗らなきゃいけないからね」

 住宅街には公園があり、何人かの子どもたちがきゃらきゃらと甲高い声を上げている。それを見守る母親たちは、明らかに顔立ちの似ていない二人を見ても何の反応も見せなかった。

(意外と親子にみえるのかな……)

 ふっと今ごろ一人アパートにいるであろう母の横顔が浮かんだ。白髪が混ざってきた黒髪を一つに束ねて洗濯物を畳む母。日に焼けた畳の上に座る母の顔に影が差す。大人ものしかない洗濯物を畳みながら、母は何を思うのだろうか。自分のこと思い出してくれるだろうか。
 しかしそれは徐々にぼやけて、色落ちしたパーマを振り乱し、濃い化粧をした女の顔へと変わっていった。ビールの空き缶を転がし、顔も知らぬ男にしなだれかかる女の顔。
 ずきりと胸が痛んで雪華は椎菜の腕に抱きついた。やせているとはいえ全体重をかけられれば歩きにくいだろうに、椎菜は何も言わずにただ前を向いて歩き続けた。


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