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12月10日 MANGA議連の行く末ははどうなる?

 読売新聞でこんな記事を見付けた。

超党派の「マンガ・アニメ・ゲームに関する議員連盟」(MANGA議連)の役員会が7日、国会内で開かれ、漫画好きとして知られる最高顧問の麻生太郎元首相らが出席した。

議連は、漫画制作などに関わる人材の育成や資料の収集・保管、国際交流を後押しする「MANGAナショナル・センター構想」の実現を目指している。

 このブログではわりと何度も取り上げている話だが、また繰り返そう。
 2009年頃の話。当時の自民党発案で、アニメ、漫画、パソコンゲームなどの近代商業芸術を「メディア芸術作品」として蒐集、保管、提供、研究などを目的とした巨大施設の構想が打ち出された。それが「国立メディア芸術総合センター」。
 しかしこの構想は「アニメの殿堂」「国営漫画喫茶」などと野党から揶揄され、そこから国を挙げてのバッシングへと繋がった。「国の税金を使って麻生太郎の趣味の漫画収集施設を作るのか!」という批判がマスコミ主導で展開され、そこから「国が漫画などの創作に干渉するかも知れない」といった不安も尾ひれのようにくっついていき、その当時はまさに「国が一丸となって」……という勢いで徹底的に叩き潰した構想だった。
 このお話は、民主党が政権をもぎ取った後のあの悪名高い「事業仕分け」にも結びつくお話しとなった。
(ちなみに「国営漫画喫茶」と命名したのは鳩山由紀夫。どんな事件でも、こういう「俗称」をつけて扇動しようとするやつは大概碌な奴ではないので、そういう奴の話は聞く必要はないし、そういうのに感情を振り回されるのは時間と体力の無駄)

 でも国家が漫画やアニメを「文化資料」として蒐集する構想は完全に立ち消えとなったわけではなく、2010年にはモノではなくデジタルデータを中心に蒐集することを目的とした「メディア芸術データアーカイブ事業」なんてものもスタートした。今回の「MANGA議連」、つまり「超党派で作るマンガ・アニメ・ゲームに関連する議員連盟」による「MANGAナショナル・センター構想の早期実現を求める緊急会議」へと繋がる話に繋がっていく。

 あれから10年の時が流れているが、「国立メディア芸術総合センター」の構想は諦めず続いていたのだ。

 マンガ・アニメ・ゲームを文化資料として蒐集する。これは非常に大切なことで、私たちの文化がどのように始まり、発展していったのか、その足跡を残して体系化しておくことに意義はある。
 ところが2009年頃の日本人はそのように考えず、「たかが子供の読み物を国予算で蒐集するとはどういうことだ」という考え方に捕らわれ、自ら自分の文化を否定するような立ち回り方をした。
 それがどんな禍根を残すのか……このまま何もしないでいると、「遡れない文化」になってしまう可能性が出てしまう。遡れない文化になると、急速に文化が軸を喪い、衰退へと向かって行く。一度衰退してしまったら、再生不能か、再生しようにも「最初から」ということになる。それを避けるためにも、文化的足跡を作っておくことは非常に大切だ。
 幸いにして漫画はまだ若い文化だ。戦後、漫画文化を猛烈な勢いで刷新し、再定義し、「第2の創始者」としての足跡を残した「手塚治虫」の名前を私たち漫画好きの人間であれば誰でも知っている。手塚治虫をリアルタイムで読んでいた世代もまだ在命。まだ「歴史の始まりを生で語れる時代」にある。
 では例えばD・W・グリフィスという名前をみんなは知っているだろうか? 「知らない」というのが問題。グリフィスは1910年代に『国民の創世』『イントレランス』といった映画の傑作を生み出し、映画の文法を作り出して「映画の父」と呼ばれる人である。いわば映画界の手塚治虫のような存在だ。
 しかしグリフィスの名前は現代の映画好きですら知らないし、ほとんどの人がその作品を見ていなければ、作品について語ることができない。それはつまり、「映画がどういった人によって開拓され、今に至ったか」この起源についてわからないまま語ってしまっている……ということだ。
 今なら手塚治虫をリアルタイムで読んでいた人がまざ在命で漫画について語っているが、こういった人たちがこの世を去っていくと、急速に忘れられ、そのうえで関心も喪われていく。語れる人がこの世を去っていくと、急速に忘れられていく……というのはよくあること。忘れられるなら、記録としてきちんと保存し、後の人がいつでも閲覧できるようにしておくこと。そのことの意義は大きい。
 たかが子供の読み物……といえど大人の作ったものであるなら、それはきちんと作られた文化であるはず。よくよく読めば深みも奥行きもあるはず。「子供の読み物に過ぎない」という思い込みは、その体験が子供時代で止まっているから。「子供の読み物に過ぎない」というのは語り手が子供の感覚で止まっている、ということであって、子供の頃に読んだものがどういったものだったのか総括できていないという意味でもある。そういう意見こそ、実は恥ずかしいものだと戒めねばならない。

「外国にはこんな漫画みたいなものを蒐集する博物館なんてない」
 という人も多かろうと思うが、実はある。アメリカ、フランス、イギリス、韓国、中国……メディア芸術に相当する芸術を蒐集するための施設建造計画が構想されている。日本人はなにかと「欧米では~」と言う。その欧米がすでにやっている。なぜ日本ではやらないのか?

 ちょっと前の話だけど、漫画家の遊人が自分の現役時代の漫画原稿をオークションに出した。自分もそれなりの年齢になったし、老後の不安もあるし、自分の死んだ後は原稿が散逸してしまうかもしれない。だから今のうちに本当に大事にしてくれるコレクターの人に譲った方がいい……そんな話だった。
 こんなふうに、何かしらの理由で現役時代の原稿を手放してオークションにかける……という漫画家は時々話題に上る。ピークを過ぎてしまった漫画家、その後の生活に不安がある漫画家はこうやって原稿を手放してしまうことが多い。
 漫画家はいつまでも漫画が描けるわけではない。ずっと現役でいられる漫画家……という人もいるが、それは多くない。思い出してもらいたい。自分の子供の頃から読んでいて、大人になっても現役で続いている……という人なんて何十人もいない。漫画家でいられる期間、というのは長くても10年くらいなのだ。ヒット作を生み出しても老後が不安になる漫画家は多い。
 こういう時、国がそれなりの条件のいい価格で買い取ってもらえるようにすればいい。国の施設であれば理想的な環境で管理することができるし、資料整理の専門家もついてくれるはずだ。国の蒐集施設があればこれほど安心な話はない。
(理想を言えば……作品を預けたら国から「年金」をもらえるようにしてくれないだろうか。生きている間は。多くなくてもいい。そうすれば引退した漫画家がその後の生活に苦しまずに済む)

 『こち亀』で知られる秋本治さんは、専用の資料庫を作り、そこに『こち亀』の第1話から最終話まで綺麗に保管しているという。秋本治さんの資料庫はきちんとしたもので、庫内の温度・湿度がつねに一定に保てるようにしているそうだ。
 そうやって本当にきちんとした資料庫を作り、保管する……というのが理想的だが、それができるのは『週刊少年ジャンプ』という戦場で40年も連載を続けられたから。ほとんどの漫画家にそんな資料庫を作る余裕はない。
 漫画の原稿はすべて漫画家が保管すべし……。漫画は(若い文化だから)精神論が大好きだからこう言う人も多いが、全ての漫画家が自分の作品を万全に保管できるような余裕などない。

 私だって自分の過去作についてはたいして思い入れもないから、どんどん捨ててしまっている。部屋が狭くなる原因だもの。なにより私自身が持っていても意味のないものだから、捨ててしまう。作り手にとって過去作は、そこまで重要ではない場合は結構あるんだ。
 私の作品の場合、本当に無価値なんだけど。

 こういう話でいつも思い出すのが大英博物館の浮世絵コレクション。日本の美術館で時々浮世絵をテーマにした企画展とかやるのだけど、その時必ず、「大英博物館提供」という文言が横に付いている。浮世絵に関する良質なコレクションは日本ではなく、イギリスにあるのだ。
 どうしてこういうことになったのか、というと日本よりイギリスの方が早く浮世絵の芸術性に気付いて蒐集を始めたから。その結果、いいコレクションがみんなイギリスに移って、日本のものなのにイギリスから借りなくてはならなくなってしまった。
 現代の漫画はどうかというと、すでにアメリカ、イギリス、フランスで蒐集は始まっているようだ。もしかしたら100年後、日本で「漫画博物展」とかやると欧米からコレクションを借りて……ということになるかも知れない。
 それは恥ずかしいから、せめて自国のものは自国で蒐集しようぜ……とはならないのだろうか。

 その文化がいかに大事で、いかに保存していくか。そういう課題は、ある程度熟練した作り手にならないとなかなか気付かないもの(若い人はこういうことはなかなか考えない)。
 2017年、庵野秀明は「アニメ特撮アーカイブ機構」を立ち上げた。これは特撮をメインにしたコレクションの蒐集、展示を目的とした組織だ。この立ち上げの時、いかに文化を蒐集し、守っていくことが大事か……ということが語られていた。文化を守っていくために博物館を作り、資料を蒐集し、良好な状態で保存しておく。これは自然な発想なのだけど、どういうわけか日本人はこの話をすると否定的に捉えがちになっていく。自国の文化ときちんと向き合えない証拠だ。

 映画監督・黒澤明はこう語る。
「日本人はなぜ日本という存在に自信を持たないのだろうか。なぜ外国のものは尊重し、日本のものは卑下するのだろうか。歌麿や北斎も写楽も逆輸入されて初めて尊重されるようになったが、この見識のなさはどういうわけだろうか。悲しい国民性というしか他はない」
 日本人は日本人自身で自国の文化を評価することができない。海外で評価されてやっとそれが「良いものだった」と気付く。ずっとその繰り返し。自分で「良いモノ」「悪いモノ」の区別ができない。それは自国の文化について語る能力が劣っているからだ、といえる。いまだに認識が子供の国……そう言われても仕方ない。

 私は個人的にFacebookを通じて海外の人と交流しているが、海外の人は自国発の文化はたいてい「誇り」に感じている。そのうえで、「日本には漫画という凄い文化があって羨ましい」とはよく言われる。あんなに優れた文化は、どこの国にもない、と誰もが言う。それを聞くたびに私は驚くし、恐縮してしまう。私たちはそういう文化を作った国の人間なんだ……少なくとも海外からはそのように見られている。そんな文化を国が蒐集し、保存することに反対する。海外から見て「なんて不思議なことをする人たちなんだ」と思われても仕方あるまい。

 長くなってしまったが、ある一定の文化を作り得た国の人間が、どうしてその文化を尊重し、それを保全することに反対するのか。むしろ反対する方がおかしいのではないか。それを改めて考えるべきではないか。
 漫画・アニメの資料を蒐集する施設の構想が表舞台に出てくると、またマスコミがギャーギャー騒ぐことだろう。「国民の血税が国営漫画喫茶に使われようとしている」と。マスコミと野党はどんなものであっても、国がやろうとすることにケチを付け、国民を扇動するように仕掛けてくるだろう。10年前の時のように、またマスコミに乗せられないことが大事だ。


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