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スピッツ「君と暮らせたら」 緑のトンネル抜けて 朝の光に洗われるような

アルバム「ハチミツ」(1995年9月25日リリース)の最後11曲目に位置する。最後ということで、強いメッセージが込められているのではないかと思っていたのだけど・・・。
ある意味では強いのかしら?

ロックとは言いがたいようなきれいなメロディーに乗って、草野さんの高音ボイスが美しい。
「みーどーりのトンネル抜けてー あーさのひかりにー洗われるようなあーーー」
伸びやかな美しい声が心地いい。

歌詞を見ていく。
「緑のトンネル抜けて 朝の光に洗われるような
わずかな微笑みさえも 残らずみんな分けあえるような
可愛い歳月を 君と暮らせたら」

「〇〇ような、●●ような」は、「可愛い歳月」の修飾語なんでしょうね。

四つの「ような」を並べて見てみましょう。
「緑のトンネル抜けて 朝の光に洗われるような」
「わずかな微笑みさえも 残らずみんな分けあえるような」
「ジグザグこだましながら 声が遠くまで届いていきそうな」
「見上げれば 雲の流れに 今いる場所を忘れちゃいそうな」

上の二つは「可愛い歳月」に、下の二つは「寂しいあの町」にかかっている。

どっちも明確に何を指しているのかを明かしていないという点で、基本的には作者の妄想的なものであると推察できそうです。

「可愛い歳月」は、修飾語も含めてものすごく前向きなイメージにあふれていますね。
「寂しいあの街」は楽しいことばかりではないけど、自分を失いそうな都会のような場所を指しているのでしょうか。

「ジグザグこだましながら 声が遠くまで届いていきそうな」というフレーズはビル街をイメージしました。まるで鏡のように輝いた外観を持った巨大なビルに映った雲。洗練されているけど、故郷とは全く違う都市部の寂寥感のようなものかしら。

ここまで、ほぼ妄想だけで最終フレーズに突入するのです。

「十五の頃の スキだらけの 僕に笑われて
今日も眠りの世界へと すべり落ちていく」

15歳のころの思春期の「好き」だけでいっぱいの僕、あるいは「隙」だらけだけど行動力のある僕でしょうか?

ある程度、大人になった自分は、妄想することはできるけど、行動できない、動けない。

結論としては、とんでもなく、自虐的な歌ではないでしょうか。
妄想と希望を歌い、最後は何もできずに「今日も寝る」と歌う。

こんなに、きれいな声と、美しいメロディーに乗せて歌う曲なのかしら?
このギャップのイタズラ心が草野さんらしいのかもしれません。

2022年10月29日 トラジロウ

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