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平野啓一郎
2015年9月4日 10:00
後戻りするつもりはまったくなさそうで、その上でこちらの反応を気にしている様子だった。最初のメールを読んで以来、どこかでまだ、信じられないと拒んでいた現実感が、念押しするように、彼女に手渡された。「事情が事情だけに、洋子さんならきっと理解してくれると信じてる」という一文に、何度となく目が行った。面と向かってそう言われたなら、きっと頷いただろう。それでも、「ちょっと、残酷な言い方ね。」と抗議した
2015年9月3日 10:00
照明が眩しかった。彼のために、空港のトイレで化粧を直して以来の自分自身との再会だった。どんなに我慢しようとしても、自然と笑顔になってしまうのを、「ヘンな人と思われるわよ。」と心の中で囁きかけていたのが、遠い昔のことのような気がする。 メールは、蒔野からだった。洋子は動悸を抑えながら、窓辺のソファに腰掛けて、それに目を通した。「やっと、帰宅しました。 夜送ったメール、読んでくれた? 返
2015年9月2日 10:00
洋子は、音楽に、自分に代わって時間を費やしてもらいたくて、iPodをスピーカーに繋いでアルバムを漁った。いつの間にか、蒔野のレコードばかりになっていた中から、彼とは無縁の曲を探して、アンナ・モッフォが歌うラフマニノフのヴォカリーズを再生した。去年、彼女が亡くなったのを機に、またしばらく、この美貌のソプラノ歌手のレコードをよく聴いていた。 良い選択のような気がした。意味のある歌詞にはとても耐え
2015年9月1日 10:00
彼という人間が、考えに考え抜いて、こんな身勝手なタイミングにまでずれ込んでしまったその決断を。相手を一時傷つけてでも、今どうしても伝えねばならないと思いきった結論を。初めて出会った時から、九カ月という時間を過ごしてきて、結局、自分が人生を共にすべきは、あなたではなかったという、その偽らざる実感を。……せめてそれが、彼のためだと信じられるのであれば、自分は彼を愛しているが故に、彼との愛を断念できる