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林浩治「在日朝鮮人作家列伝」05   呉林俊(オ・イムジュン)(その3)

呉林俊──激情の詩人の生涯(その3)

林浩治

←(その2)からのつづき

2)『記録なき囚人』 ②関東軍中国東北部老黒山部隊


 1944年10月下旬、満州国牡丹江省東寧県老黒山駅(現・注家事人民共和国 黒竜江省牡丹江市東寧市(県級市))に、呉林俊たち朝鮮兵を含む新入部隊は到着した。

満州を走る機関車(**ページ末に詳細)

  朝鮮人兵隊は日本人兵の班に分散配置された。呉林俊は第一中隊第二班に配置されたが、班には「関特演」で鍛えられた古年兵がひとあし先に入隊していた。「関特演」とは、呉林俊は「関東軍特別大演習」と説明しているが、対ソビエト連邦作戦準備のために招集された関東軍特種演習のことだと思われる。

 直属の上官である平沢伍長は、直立不動の新兵たちを前にして「軍隊とは人殺しを教えるところだ」と実直に宣言する。呉林俊の頭脳に巣くった青柳少尉の空虚な理想論とは対極にある現実の言葉を、彼らはその後実感させられた。

 それからは演習もなく、来る日も来る日も便所掃除、石炭受領、薪割り、水汲み、建物修理、被服整理、武器庫の雑務、配給品受領などの使役にこき使われた。
 しかも兵隊に平等に給与すべき食料品を、古年兵がどうどうとピンハネするため、新兵には充分な食料がまわらず、残飯の奪い合いに明け暮れることになる。間違って古年兵の喉を通過すべきものを新兵が舐めてしまったら、営内用の底の厚い固いスリッパで、頬の皮が破れるほど打擲される。

 週1回の入浴は、川の氷を割って二つの樽桶に汲み入れ坂道を上り下り何十回、やっとのことで満水にするが、初年兵は時間もないのでせいぜい濡れ手ぬぐいで顔だけ拭き、「入浴からただいま帰ってまいりました」と大声で報告しなければならなかった。そのため不衛生この上なくシラミの氾濫に辟易していた。
〈陰惨きわまる生活、それはわたしの抱懐していた軍隊への幻惑をひとつ残らず崩壊せしめつつあった。〉
 
  これが 精鋭な関東軍なのか!
  だまされたおれはおだてられた囚人だったんだ
  夜。
  悔恨の涙が頰をさかなでにして流れてゆく。
  食事当番! 早くおれのメシを持ってこい! ぐずぐずするなっ!
  おれはあわてふためき
  班長室にしゃちほこばってお膳をささげてゆくとたんに、
  〝この朝鮮野郎め! マスクをしてこい、マスクを〟
  マスク…… そうだった
  衛生のために食事当番はマスクをかけねばならなかったのに
  それをつい忘れたのだ。
  〝朝鮮人は、まったくずるいしよぉ、それに臭いからなあ……〟
  奥の方で軍曹が
  つぶやきながら
  寝台から身を起こす
  〝このあいだ、駅前の朝鮮ピーとあそんだらよぉ、
  あれがな、つるつるの土手ときたからよ、
  参ったな、おれそんなに飢えてるかなあ〟
  俺は髑髏のようにこわばる
  いや、茶番劇は
  とうから脱稿されていたのだ。
  トンマでおめでたいおれは
  ここにはそれがない、と信じていたというわけだ。

 
「半島人」からの飛躍跳梁をこころみたことは浅はかな虚栄心であった。スリッパがうなって頰を打つ。恐怖による支配と乱打のさなか、幼い日、母と訪ねた故郷朝鮮の市の風景が脳裏を廻った。
 
 充分に打擲して満足した坂元兵長の後を、関口軍曹が引き継いだ。関口は満期除隊据置き組で、むしゃくしゃした憤怒が理不尽な暴力として朝鮮人二等兵に降り注がれた。

 呉林俊は誘蛾灯に誘われてまんまと罠にはまった一匹の蛾であることを自覚した。
 関東軍老黒山部隊に配属された朝鮮兵が見たものは、およそ規律正しい差別のない社会とは程遠い地獄だった。そこは残飯の争奪戦にはじまる餓鬼の世界であり、劣等感と恐怖心からくる私的リンチが横行する無秩序な小社会なのであった。

 日夜の理不尽に耐えられず、呉林俊は夜中に防火用水の水を飲み、入院を図った。しかし仮病棟でも鉄拳制裁は続く。ひどい下痢と罵り打擲、悪臭に自己嫌悪に陥るのだった。

『記録なき囚人』の「まえがきにかえて」(1969年1月)に、「わたしは、日本の戦後民主主義の表層から現在に至るまで完全に落丁したままである囚人の〈思想〉を、現場にいあわせた少年の声で語りかけたいと考えた。」と書いている。
 サブタイトルに「ある朝鮮人戦中派の精神史」とあるが、帝国陸軍最後の二等兵たらざるをえなかった朝鮮人青年の精神史は、日本の歴史に刻み込まなければならないはずだ。

(その4)へつづく
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*本文の著作権は、著者(林浩治さん)に、版権はけいこう舎にあります。

◆参考文献

*ヘッダー:満州地図
パブリック・ドメイン(File:Coloured map of Manchuria.jpg)
·アップロード: 2010年3月19日
Karte der Mandschurei (Mandschuko); von zh.wikipedia. anscheinend alte japanische Karte, angeblich GNU-FDL
Mapa de Manchuria tomado de de.wikipedia

**満州を走る機関車(南満洲鉄道を走る列車)
〔老黒山は南満州ではありませんが……〕
パブリック・ドメイン
File:South Manchuria Railway LOC 03283.jpg
アップロード: 2006年11月17日
この作品は米国議会図書館のジョージ グランサム ベインコレクションからのものです。図書館によると、この作品の使用に関して 既知の著作権制限はありません。


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