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成人式で着たかったのは、振袖ではなく紋付き袴だった件。


成人式の話をしたいが、その前に



2024年

元旦から、とんでもないことが起きた。

「令和6年能登半島地震」と呼称される今回の地震。

未だ、被災地では関連地震が続き
寒さの中、避難生活をされている方々がいる。


「あけましておめでとうございます」

という年賀の言葉も憚られる。
胸が痛い。

地震から一週間以上が経ち
ようやく、石川・富山・新潟の知り合いの方々に
ご連絡をさせていただいた。

皆、命こそ無事だが
文面から手放しで「無事」とは言えない不安が
ありありと見てとれる。

東日本大震災では
私も震度6を経験したが
今回はそれ以上のものである。

これからいよいよ寒くなるというのに…

地震大国とはいえ

なにも、この時期に…
しかも
元旦に起きることないじゃないか。



「お屠蘇を飲んでいたら、こんなことになってしまって…
…生きている実感がない……」

ニュースの中で
避難所にいる、高齢の女性がそう言っていた。

子ども、若者、お年寄りが 辛そうな顔をしている姿は
見ていてやりきれなくなってしまう。



ところで、今日は、成人の日。


今日、成人を迎えられた被災地のみなさんのことを
ふと思う。

彼らは、学生時代
新型コロナウイルスのおかげで
修学旅行にも行けなかったし

部活動だって満足にできなかった。

こんな大変な時代に、多感な時期を過ごしてきた。

「耐える」ことに慣れすぎた彼らは

私が「彼らと同じ年齢」だった時よりも

当然、おとなびており、目の奥の光も
私たち アラフォー世代とは また違うように感じる。




昭和58年生まれの私は40歳だが



「ダブル成人」というのだそうだ。


なんじゃそりゃ、ウルトラマンに出てくる怪人みたいな名前じゃねーか


沖縄では昭和58年生まれの
わたしと同級生の人たちが
「ダブル成人式」というのをやっていたそうだ。

沖縄の成人式は毎年荒れるが
私らの代も酷かったと記憶している。

二度目をやるってことは
何か、彼らも、やり直したいことがあるんだろう。




成人式の記憶…



二十歳のわたしは


当然


「成人式には参加しない」


と思っていた。


というか、はっきり口に出して


「成人式は、出ない」と

断言していた。




私の家では、

小学生のころから

「18になったら家を出ること」

という決まりがあって

母親は、それを口癖のように言っていたから

私も高校を卒業すると

家を出た。



当時、千葉県の松戸に住んでいた。

そして、大阪にある劇団に通っていた。


若かったからできたのだろう。

深夜高速バスで行き来しながら

バイトして、劇団に行って…

というハチャメチャな生活をしていた。


無論、金は無かった。



成人式に着ていく
「かしこまった服」
なんて持っているはずもなく


第一、性格的にも
そういう式典みたいなところが苦手だった。


同級生にも別に会いたくないし

なにより、貧乏育ちなもので

そんな「一日だけの思い出作り」なんかで
無駄金を使いたくないから

ハナから、成人式なんてものは
頭になかった。



しかし、母は違った。


「お母さんは、18で東京に出てきて
成人式は出られなかった。
それを今でも後悔している。
あんたは、成人式に出なさい。
それが親孝行ってものよ!」



 
私の持論だが


親のコンプレックスは
そのまま子どもに引き継がれる。



たとえば、高卒の親に育てられた子供は
たいてい高卒だ。


そして、親が離婚経験がある家庭で育った子供は
離婚率、もしくは、非婚率が高い。

(多少偏見混じっているが、これは一般論としても言われている)


だが

その逆もあるのだ。


「子供時代、人形を買ってもらえなかった親は
子供に、人形を買い与えたがる」


「子供時代、アイドルになりたかった親は
子供を、アイドル事務所のオーディションに売り込もうとする」


「成人式」も 然りである。




うちの母親は

本当に、頑張ってくれた。


わたしを

成人式へ

振袖で行かせるために

ありとあらゆる知り合いに頼み込んで

わたしを「綺麗なお嬢さん」に仕立て上げてくれた。




それには

今も感謝している。



母、ありがとう。




うちは片親で

妹も、進学を控えていたし

私自身も、母親に

お願いごとをできない性格だったから


「成人式に行かせてください」


という言葉が言えなかった。




母親の



「絶対に、成人式には出るべき!!

お母さんは、出られなかった!!!

振袖も着られなかった!!!

おまえには、振袖を着て
成人式に出てもらいたい!!!」



という言葉が

後押しとなって

成人式に出ることができた。



振袖は どうしたか?



うちには勿論

振袖をレンタルする金なんてない。


母の提案で

私は、別れた父親の家に

電話をした。




親というのは
よくわからないものだ。



あれだけ悪口を言っていた
離婚した元旦那の実家に

「振袖がある」ことを知っていた。


振袖なんて、高いものを

祖母は貸してくれないんじゃないかと

ドキドキしながら頼むと


二つ返事で

「いいよ」

と言ってくれた。


叔母が着た、振袖を
祖母から借りることができた。



祖母は
「取っておいてよかった!」

と喜んでくれた。

元々、着物好きな祖母である。


保存の状態も完璧だった。




母は

幅広い「ともだちコネクション」を
巧みに利用して

着付けをしてくれる人
髪型を結ってくれる人

を見つけ、頼み込んでくれた。




早起きをして、美容院で
母の友達に髪の毛をセットしてもらう。


家に来てくれた母の友人が
素晴しい手つきで着物を着せ
帯も見事に仕上げてくれる。


メイクは自分でした。




着付けが終わると

自宅で写真を撮った。



中には写真館などに行って
プロの方に撮ってもらう人もいるだろう。

そんなことをしたら
幾らかかるか知れたもんじゃない。


根っから貧乏性の私は
とにかく「安上り」に済ませてほしかった。




母は、たくさん、たくさん

写真を撮ってくれた。

当時でいう、富士フイルム24枚撮りを

まるまる一本使って撮ってくれた。


最後の方は

飼っている猫とか撮ってたけど。



母も、友達も
みんなで


「綺麗、キレイ!」と
褒めてくれた。



私は まんざらではなかった。



正直、嬉しかった。



祖母にも見せに行った。




「綺麗!」と喜んでくれた。




私も、喜んだ。





母は、あの日

わたしを「成人式」に行かせるために

一体、いくら使ったんだろう。



本当に、感謝してもしきれない。



母子家庭で

女手一つで

わたしを育ててくれた母。



今でも、あの頃のことを思い出すと

胸がいっぱいになり

泣けてくる。




全力で

「その節は、誠にありがとうございました!!!!」


と叫びたくなる。




毎年、
この日、振袖姿の女性を見ると
こんな感情が沸き起こる。



「ダブル成人」で

やっと言えた。





あらためて、母よ
その節は、ありがとう。









ただ、一つだけ。




身勝手な
わがままを言ってもいいのなら






僕は、あの時





袴が着たかった。





同級生の男子が


紋付き袴をかっこよく着こなしているのを見て


「いいなぁ」と心の中で呟いていた。



いや、たしか、口に出して言っていたと思う。




成人式が終わり、帰宅早々


いち早く着物を脱いで


私はさっさと、合コンに行った。


母に

「えっ!?もう脱ぐの?!

で、こんな日にどこに行くの!?」



と言われたが



振袖の女の子たち目当てで

男友達と合コンに行ったことは

ずっと内緒にしていた。


40歳になり

初めていう。




親不孝はたくさんしてきたが


あの日の「僕」は


背徳感の塊であった。





母ちゃん

せっかく着せてくれた振袖

秒で脱いでごめんなさい。



「僕」がいまだに



結婚しても



式はおろか



写真一枚撮らない理由は




本当に着たい服で




写真を撮ってもらえないからなんだ。





一度、パートナー(夫)に


「私も、袴で撮りたいのだが」と言ったら


反対された。





「僕」の、願いは



多分、一生、叶わない。




頭の中に


女と 男が同居しているというのは

割と

大変なことなんだ。




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