見出し画像

労働Gメンは突然に:第1話「賃金不払」

あらすじ

厚生労働省の職員にして、専門職の国家公務員、そして労働法の番人である労働基準監督官――別名「労働Gメン」。
時野ときのは晴れて労働基準監督官となったが、配属された角宇乃かくうの労働基準監督署の先輩たちは、「冷徹王子」の加平かひらをはじめ、癖が強め。
賃金不払のまま行方不明の事業主、有給休暇を取らせない事業場……次々に持ち込まれる労働問題の裏には、労働Gメンを陥れる闇の指南役「アール」の影が――その正体は、加平が追う謎の女なのか。やがて辿り着く、ある労働基準監督官の死の真相とは――。
労働Gメンの仕事の日常、巻き起こる様々な事件、時々恋愛(?)を描く、お仕事小説。


本編:第1話「賃金不払」

 市役所や警察署、税務署といったメジャーな役所が市内の中心地にあるのに比べて、角宇乃かくうの労働基準監督署は「町外れ」と言っていいような場所にあった。

 JR角宇乃駅から徒歩20分――。もはや最寄り駅とは言いがたいほど駅から離れた場所に、角宇乃労働基準監督署の庁舎はある。

 時野ときのは右手でスマートフォンを操作し、目的地である角宇乃労働基準監督署の位置をGoogle Mapで確認した。左手には重たいビジネスバッグを持っている。

 幸い、角宇乃駅から角宇乃労働基準監督署までの道のりは単純だった。駅前から真っ直ぐ国道沿いに歩き、交差点を一度右折するだけでたどり着けるらしい。

 この地域の4月にしては気温が高く、背広を着た背中にうっすら汗をかき始めていた。

 駅前のロータリーには、複数台のタクシーが列をなして停まっていた。
 時野は、平日の昼間の暇そうなタクシー運転手たちをちらりと見る。

(さすがに、新人がタクシーで乗り付けるわけにはいかないか)

 一瞬迷った時野だったが、小さなため息をつくと背広を脱いで右腕にかけ、20分の道のりを歩き出したのだった。

「こんにちは。どのようなご用件ですか」

 受付に出てきたのは、30代と思われる女性だった。
「総合労働相談員 渡辺」と書かれたストラップ付き名札を首からぶら下げている。

 受付の横から接客用のカウンターが事務室の幅いっぱいに伸び、カウンターの奥には職員の事務机を4から6個ずつ集めた島がいくつもあるのが見えた。

(こういうのは、最初が肝心だ)

 時野はビジネスバッグの取っ手を握りなおすと、繰り返しイメージトレーニングを行ったセリフを発声した。

「本日付けで角宇乃労働基準監督署に配属になりました、と、時野と申します」

(うぐっ! 自分の名前で噛んだ!)

 カウンターの奥の職員たちの視線が時野に集中するのがわかる。

 庁舎内は外よりもいくらか涼しいはずなのに、さっき駅からの道を歩いてきた時よりも汗がダラダラと流れてきた。

「あ……ちょっとお待ちくださいね」

 渡辺相談員はくすっとしながらそう言うと、後ろを振り向いてきょろきょろと誰かを探している様子だ。

「……あれ? 一主任いちしゅにんはいらっしゃらないのかしら」

 事務机の島よりさらに奥には大きな窓が並んでいるが、その窓際には島にあるのよりも大きな事務机が窓口のカウンターの方向を向いて並んでいる。どうやら、役職者の机のようだ。

(窓際の席なのに役職者が座っているんだ)

 渡辺相談員が探しているのは、その中でも一番上座の席に座る役職者のようだ。
 席に近づいてみてやはりいないことがわかると、近くの席に座っている男性職員に近寄っていく。

加平かひらさん、ちょっとよろしいですか。新人さんが窓口にいらしてますけど、一主任がいらっしゃらないみたいで……どうしましょう」

 加平、と呼ばれた男性職員は時野の方をぎろりと見た。

(う、睨まれた?)

 加平は何かぼそぼそと渡辺相談員に答えると、時野の方に近づいてきて、目の前に立った。

 昨夜のイメージトレーニングでは、優しそうな中年の上司が出迎えてくれる設定であったのだが、リアルの記念すべき先輩第一号は、目つきが悪い。

 加えて、加平は背が高い。細身だが180センチメートルを超えているようだ。

 時野は170センチメートルないぐらいなので、加平が目の前に立って見下ろしてくると、かなりの威圧感だ。

(極道の若頭……闇金融の取り立て屋……良くてマル暴の警察官)

 加平の第一印象を頭の中で言語化しながら硬直していると、加平がくいっと顎を動かした。

 どうやら、ついて来い、という意味のようだ。

 慌てて受付とカウンターの隙間から中に入り、加平の後を追う。

「ここがお前の席」

 先ほど加平が座っていた事務机は、窓際にある役職者の席とは直角に配置されており、加平の席の右側が役職者の席、左隣が時野の席のようだ。

 時野の席とカウンターとの間にはもう一席あり、受付で対応してくれた渡辺相談員が座っている。

 加平は自分の席に座ると、正面にあるパソコンのモニターを眺めながらマウスで何やら操作をしていたが、時野が立ちっぱなしでいるのに気づくと、椅子を指さした。

「いつまで立ってる。座れ」

「は、はい」

 時野は椅子に腰かけ、足元にビジネスバッグを置いた。その時になって初めて、取っ手をつかんでいた左手がじんじんと痛んでいることに気がついた。午前中の辞令交付の際に配布された業務用の書籍がぎっしり詰まって、バッグが有り得ない重さになっていたからだったが、そんな感覚がふっとぶほどに、緊張していたのだ。

(席の配置からすると、この加平さんって人が直属の先輩なのだろうか……)

 不安な気持ちで加平の方をちらりと見た瞬間、加平が突然立ち上がったので時野は肩をびくっと震わせた。

 加平はどこかから紙を一枚とってくると、無言で時野に手渡した。

「基準システムのIDと初期パスワード」

 渡された紙は、メールをプリントアウトしたもののようだ。時野の氏名や「ID」「パスワード」といった単語とともに、英数字が羅列されている。

 「基準システム」とは、労働基準監督署の業務用システムらしい。

 加平は自分の椅子に座ったまま、足で床を蹴って時野の席に近づき、時野の席のパソコンに右腕を伸ばして電源ボタンを押した。

「とりあえず、システムが使えるように設定。起動したら、IDと初期パスワードを入力」

 加平の言葉は短く、必要以上のことをしゃべらないタイプのようだ。

(だけど、必要なことは教えてくれているみたいだ)

 席に案内だけされて放置されるのかと思ったのだが、一応新人である時野の面倒を見てくれているらしい。

(人を見た目で判断してはいけない)

 少し安心して加平の方を見ると、加平が時野を睨みつけた。

「なにボケッとしてんだよ、もう画面立ち上がってるだろ。入力!」

「は、はいっ」

(やっぱり、見た目通り怖い!)

 加平は足を組んで椅子に座ったまま短い言葉で時野に指図し、時野はあたふたして時折加平に怒られながらも、なんとか設定が終わった。

「今、上が誰もいないから、とりあえずこれでも読んどけ」

 手渡されたのはA4の小冊子で、表紙に「労働基準法のポイント」と書かれている。

(「上」というのは、先ほど渡辺相談員が探していた「いちしゅにん」のことだろうか。加平さんの言い方からして複数名を表しているようだが、ほかは署長のことかな?)

 労働基準監督署のトップは署長だ。さらに、角宇乃労働基準監督署には副署長もいるらしい。

 午前中に労働局で辞令の交付を受けた後、人事の人に教えられたことだ。

 労働局とは、労働基準監督署の上位の役所で、各都道府県に一カ所ずつあって、県内に複数カ所ある労働基準監督署を束ねている。

 労働局が「支社」で、労働基準監督署が支社の下にぶら下がる「営業所」といったイメージだ。

 時野たち新入職員は、今日4月1日の午前中、労働局に集められて労働局長の訓示を受けた後、採用に関わる事務手続きを経て、午後から配属先に移動してきたのだ。

 到着したら、まずは配属先の幹部に挨拶をしなければならないだろうと時野は予想していたのだが、どうやら幹部たちは不在らしい。

 加平を見ると、書類を机に広げながらモニターに向かって仕事をし始めている。

「あ、あの!」

 時野は加平に話しかけようとしたのだが、思いのほか大きな声を出してしまい、加平が驚いた顔で時野を見ている。

「申し遅れましたが、『ときのりゅうが』と申します。どうぞよろしくお願いします!」

(よし、今度こそ噛まずに言えた)

「あぁ……。加平だ」

 加平は短く名乗り、すぐに手元の書類に視線を戻した。

(加平さんも名乗ってくれたし、一応、先輩への自己紹介成功。……ってことにしとこ)

 時野が「労働条件のポイント」を開いて目次から眺めようとしたその時、怒号のような大声が事務室内に響き渡った。

「だーかーらー! 上の人出してよ。あんたじゃらちが明かねーんだよ!」

 加平がぴくりと動き、窓口のカウンターに座る客に鋭い視線を走らせている。

 時野も声の主を探そうとカウンターの方向を見た。

 接客用のカウンターの外側には何組か客が座っており、カウンターの内側にそれぞれの客に応対中の職員が座っている。

 カウンターの一番奥に座る男性客が、声の主のようだ。

 表情まではよく見えないが、深めにかぶった野球帽と、金色に染めた頭髪が見える。

「おい新監、お前も一緒に来い」

 加平はそう言って立ち上がると、ずんずんと事務室内を歩いていく。

 時野はあわててメモとペンを取り出し、加平を追いかけた。

「今野さん、どうしました」

 加平から「今野」と呼ばれた初老の男性は、金髪男とカウンターをはさんで向かい合って座っていた。

 名札からすると今野も相談員のようだ。駆けつけた加平に対し、困った様子で説明を始める。

「勤務先を退職したら、最後の賃金が支払われないそうなんです。それで……」

「だから今すぐ社長に払わせてくれって言ってんのに、このじいさんがわけわかんねーことばっかり言ってんだよ!」

「ですから、そのような場合は一度社長に対して書面で請求していただいて、それでも払われなければ監督官が調査に入りますと申し上げているじゃないですか」

「あ? 請求したって何度も言ってるじゃねーかよ!」

 金髪男は噛みつかんばかりに身を乗り出す。

「で、ですが、口頭で請求しただけとのことですよね? 一度書面で……」

「はぁ? ったく話通じないじいさんだな! だから上出せって言ってんだよ、耳ついてんのかよ、コラ」

 相談者は、ますますヒートアップしている。

「お前ら俺達が払った税金で飯食ってんだろーが! さっさと動けって言ってんだよ、このクソ公務員が!」

 時野はハラハラしながら、ただ相談者と今野相談員のやりとりを見ているしかなかった。

 加平も黙って様子を見ていたが――。

「一回死ねよ」

 加平が低い声で言い放った。

(えっ……?)

 金髪男と今野相談員が、加平の方を向いて固まった。

 時野は空耳か聞き間違いかとも思ったのだが、やはりそうではなかったようだ。

 次の瞬間、金髪男が勢いよく立ち上がると、今野相談員の横に立っていた加平の胸倉を掴んだ。

「オイ、てめぇ今なんつった? なめてんじゃねーぞ」

 加平の方はと言うと、凍てつくような冷たい目で金髪男を見返している。

 加平が金髪男の腕を掴み、力づくで胸元から引き離したのを合図に、乱闘でも始まりそうな空気が瞬間的に漂う。

(一触即発……! 格闘技でも習っておけばよかった!)

 微力でも加勢すべきか時野が悩んだその時――。

「はいはいはいはい、どうされましたかー?」

 男性の職員が小走りで駆けつけてきて、加平と金髪男の間にぐいっと腕を差し込んだ。自分が金髪男と相対するようにじりじりと割り込み、少しずつ加平を下がらせる。

 中肉中背の体躯、細く弧を描いた形のいい眉にくっきり二重の比較的整った顔立ち。目じりに少し皺が刻まれているものの、若い頃はさぞモテただろうと思わせる。

 柔和な表情を保ちながら、金髪男としっかり目を合わせ、自分に矛先を向けさせようとしているのがわかった。

 男性職員は今野相談員に代わって腰かけ、金髪男と話し始めた。

 最初は先ほどと同じ調子で激高していた金髪男だったが、男性職員と話すうち、やがて腰を下ろし、質問に応じ始めた。

 男性職員は、時折今野相談員から補足を受けながら話をまとめ、「ではまた連絡させていただきますので」と締めくくって金髪男を見送ったのだった。

 金髪男が庁舎から出たのを確かめたところで、男性職員が加平の方を振り返った。

「かーひーらー。相手の調子に合わせるなっていつも言ってるだろ。」

「……すみませんでした、一主任」

 加平が襟元を直しながら答える。

(いちしゅにん?)

「お。もしかして、君が新人くん?」

 男性職員が時野の方を向いて笑顔を見せる。

「は、はいっ! 『ときのりゅうが』と申します。よろしくお願いします!」

「ははは、初日から大変な目に遭ったね。第一方面主任の紙地かみじです、よろしく。君の直属の上司ってことになるかな」

 紙地一主任は、時野の肩をポンと叩いた。

(この人が、直属の上司……。結果的に、イメージトレーニング通りだ)

 出勤初日のその後は、紙地一主任の案内で署内の各部署にあいさつ回りをし、一日を終えた。

 帰宅した時野がバタンキューだったことは言うまでもない。

 翌日、時野が出勤すると、紙地一主任と加平が昨日の件について話をしているところだった。

「でも加平、大丈夫なのか? 昨日の相談者とはかなり相性が悪かったみたいだが」

「あんな奴と相性がいい者がいるわけありません」

「うん、まぁそうだろうけど……。流れ的に、このまま俺が担当しようと思ってたんだが」

「いえ、自分がやります。この程度の事案、一主任にお出ましいただくほどではありません」

「うん、そっか、わかった。それなら、よろしく頼む」

 時野が2人を見つめていると、紙地一主任が気が付いて手を挙げた。

「おはよう、時野くん」

「一主任、加平さん、おはようございます」

「昨日の事案の監督、お前も一緒に来い」

 挨拶の代わりに、加平が言った。

「あー、そうだね。前期研修までに実地訓練も積んでおかないといけないし。というわけで時野くん、加平と一緒に申告監督に行ってきて」

「?」

 時野が状況を飲み込めずにいると、始業のチャイムが鳴った。

 それを合図に加平が席に戻ったので、時野も従って着席した。

「これ、読んどけ」

 着席するなり加平から渡されたのは、「申告処理台帳」と書かれた書類だった。

 加平の説明によると、昨日の金髪男の賃金不払事案について、角宇乃労働基準監督署で調査を行うことになったらしい。

 労働者から労働基準法違反の疑いがある相談が持ち込まれ、相談者が調査を希望した場合、それを「申告」と呼ぶ。

 申告は労働基準法第百四条に規定されている労働者の権利で、申告事案について労働基準監督官が調査を行うことを「申告監督」と言い、調査の結果法律違反が特定されれば事業場を指導するのだと言う。

「昨日の事案、まさか時野さんが担当するの?」

 時野の手元にある申告処理台帳を横から覗き込みながら、今野相談員が言った。

 時野の左隣の机、昨日渡辺相談員が座っていた席に、今日は今野相談員が座っている。

 相談員は一番窓口に近い席に並んで座るようだが、座る席はその日によって交代しているらしい。

「いえいえ、担当されるのは加平さんです。僕は研修のために同行させてもらうことになって」

「だよね、新人さんでいきなり申告処理をするわけないか」

 昨日の今野相談員は終始眉間にしわを寄せていたが、今日はにこやかな表情で、近所にいそうな気のいいおじさん、という雰囲気である。

「昨日の金髪の相談者、窓口で騒ぎ立てて結局申告受理になっちゃったね。賃金不払の相談があったら、一度は自分で事業場に請求書を送ってもらう手順になってるんだけどねぇ」

「そうなんですか」

「うん。請求書に対して事業主が『払わない』と回答したり、指定した期日までに支払いも回答もなければ、事業主が賃金を支払わない意思が明確であるものとして、申告受理になるのが通常の流れなんだけどね」

(なるほど。単なる支払い忘れのような、違反の意図がないケースを排除するためか)

「まあ今回は賃金の支払方法が振込で、給料日に振り込まれなかったということは法律違反の可能性が高いとの一主任の判断で、受理することになったわけだけど」

「昨日冷徹王子とバトってたお客さん、申告になったんですね」

 声がする方を見ると、昨日は時野の左隣に座っていた渡辺相談員だ。今日は今野相談員の向かい側、時野からすると斜め前の席に座っている。

「冷徹王子?」

 時野がきょとんとすると、渡辺相談員はくすっと笑った。

「加平さんのことよ。昨日時野さんもわかったでしょ。人との接し方が、『冷静』を通り越して『冷徹』そのもの。特に、昨日みたいなお客さんに対してはね」

 加平がいつの間にか席をはずしていたので、渡辺相談員もこんな話をするのだろう。

「だけど、私たち相談員が困ってたらすぐに出てきてくれるし、頼りになるじゃないか」

「それはそうですけど、もうちょっと愛想よくしてくれないかなーって思うとき、今野さんもありません? 話しかけてもにこりともしないし、挨拶もろくに返してくれないし。そんな調子だから、定期的にお客さんとバトって、その度に一主任が飛んでいく、っていうのが、もはやお約束ですよね」

 今野相談員が、まあね……と同意する。

「まあ昨日みたいな時は、加平さんが冷徹対応してくれてスッキリする場合もありますけど。そうそう、昨日の相談者と言えば、帰ってるところを見ましたけど、高そうなスポーツカーに乗ってましたよ。ものすごいエンジン音で走り去りましたけど。騒音と言ってもいいぐらい」

(騒音……。改造車だろうか)

 騒音を響かせてスポーツカーを乗り回し、役所で騒ぎ立てる金髪男。

(いやいや、偏見はいけない、偏見は。困っている労働者のために働くのが、労働基準監督官の務めのはず)

 今野相談員や渡辺相談員が、それぞれ窓口や電話の相談に出てしまったので、時野は申告処理台帳の中身に目を通すことにした。

 申告処理台帳は、相談者や事業場の情報、相談内容をまとめた書類で、これは申告を受理した一主任が作成したもののようだ。

 そして、申告処理台帳の後ろには、相談したいことの概要を相談者が記入した相談票や、相談者が持参したらしい給与明細の写しが添付されていた。

(2月分の給料1か月分、約30万円の賃金不払か――)

「目を通したか」

 いつの間にか加平は席に戻ってきていたようだ。

「あ、はい」

 時野が返事をすると、加平は手のひらをこちらに差し出した。こちらによこせ、という意味のようだ。

 申告処理台帳を加平に手渡すと、それを見ながら加平がどこかに電話をかけている。

 聞き耳を立てると、どうやら金髪男の勤務先にかけているようだ。
 加平が社長への取次ぎを求めると、すぐに社長が出たようだが、なんだか会話の雲行きが怪しい。

「……ですから、そう決めつけているわけではありません。事実確認のため、お話を伺いたいと申し上げています。……ええ、それはわかりましたが、お会いして話を伺えませんか」

 社長が何を言っているかまでは聞きとれないが、受話器越しに大きな声が聞こえてくる。

(相談者だけではなく、社長の方もキレているみたいだ)

 すると、突然電話が終わった。

 加平はため息をついて受話器を置き、時野の方を向いた。

「切られた。話したいことがあるなら今すぐ来い、だそうだ。行くぞ」

 申告処理台帳によると、申告者の氏名は「山本翔太」。年齢は30歳。

 「申告者」とは、昨日の相談者である金髪男のことだ。申告を受理した後は、申告者という呼び方になるらしい。

 事業場名は「阿久徳興業あくとくこうぎょう株式会社」。

(阿久徳……あくとく……悪徳……)

 時野はふるふると頭を振った。

(字面の響きで事業場の良し悪しを判断してはいけない)

 労働基準法では、人を雇用している会社などを「事業場」と呼ぶ。法人だけではなく、個人事業であっても呼び方は同じだ。

 事業場の所在地は「角宇乃市北区3丁目……」とあり、先ほど時野がカーナビに入力した。

 時野は加平と官用車に乗って、阿久徳興業に向かっていた。
 時野は助手席に座っており、運転席には加平が座ってハンドルを握っている。

 ここは後輩の時野が運転すべきだろうと思ったのだが、新人は研修が終わるまでの間、官用車を運転してはいけないルールなのだそうだ。

 時野はちらりと運転席の加平を見た。

(運転は、ハラハラするところがないな)

 正直、時野は心配していた。

 これから阿久徳社長と話をしに行くようだが、昨日の「死ねよ」発言を真横で聞いた身としては、加平が社長ともバトルするのではないかという一抹の不安を覚えているのだ。

(昨日は一主任が駆けつけてくれたけど、今度は僕しかいない。うー、バトル開始になったらどうしたらいい?)

「着いたぞ」

 時野がうつむいていた視線を前に向けると、加平の運転する車が阿久徳興行の敷地内に入るところだった。

 来客用、と表示された駐車場に向かって、加平は官用車をバックで駐車しようとしている。

 加平が助手席の肩に左手を置き、運転席と助手席の間から振り返って後方を確認しながら車を後退させた。

(あ、これ女子がときめくやつ?)

 近づいた加平の横顔を見てみると、意外と肌のきめが細かく、すっきりした顔立ちで、一重瞼の奥にある漆黒の眼球は黒真珠のようだ。

 その黒真珠がゆっくり旋回し、時野を見ると――。

「なにバカ面してる。早く降りろ」

(もー、言い方!)

 少し赤くなりながら時野は車を降り、加平の後ろを追いかけたのだった。

 阿久徳興業は鉄筋コンクリート三階建てで、時野の予想よりもずっと立派だ。

 阿久徳興行の受付で加平が名刺を渡して社長への取次ぎを依頼すると、眼鏡をかけた若い男性が丁寧な対応で社長室に案内してくれた。

 社長室にはゆったりとした立派なソファとテーブルが配置されていて、応接室としての機能も併せ持っているようだ。

「社長はすぐに参りますので、おかけになってお待ちください」

 眼鏡の男性はテーブルの上にコーヒーが入ったカップを2つ置くと、一礼して社長室を後にした。

 加平がコーヒーに手を付ける様子がないので、時野もそれに倣うことにした。

 社長室にはほかに、社長の事務机と椅子、本棚と飾り棚を兼ねたキャビネットが置かれており、飾り棚にはトロフィーや盾が並べられている。

 社長の事務机の横に、ゴルフのパッティングを練習するためらしい、人口芝生のトレーニングマットが敷かれているのを見ると、トロフィーはゴルフのものだろうか。

(机も椅子も棚も高級品のようだが、なんだか全体的にゴテゴテしているような……成金感というかなんというか……)

 トレーニングマットの横にある鮮やかな模様の絨毯を見て、時野は度肝を抜かれた。

(と、虎の絨毯だ! リアルに持ってる人っているんだ)

 時野が絨毯に目を奪われていると、突然ガチャっと音がして社長室のドアが開かれた。

 入ってきたのは中年の男性で、ワイシャツの上に社名の入った作業着を着ている。下はスラックスのようだが、表現しにくいド派手な柄だ。

(どこに売ってるんだろう、こんな派手なズボン……)

 年齢は、50代後半ぐらいだろうか。腹は少々突き出ており、頭髪も少し薄くなっているが、脂ぎった顔面にはエネルギッシュさを感じる。

 中小企業を率いる精力的な社長、といった風体だ。

「お前らか、山本の代理人というのは」

 怒りを帯びた大きな声に、時野はびくっと肩を震わせた。

(この人が、阿久徳社長。やっぱり、怒ってるよー)

「代理人ではありません。角宇乃労働基準監督署の加平と申します」

 加平が名刺を差し出したので、時野も慌てて名乗り、名刺を差し出した。

 阿久徳社長はひったくるように名刺を受けとると、名刺の字面を睨むように確認していたが、やがて懐から黒革の名刺入れを取り出して、無言で名刺を渡してきた。

(阿久徳興行株式会社 代表取締役 阿久徳大二郎……)

 加平は阿久徳社長の名刺を一瞥いちべつすると、名刺入れとともにテーブルの上に置き、阿久徳社長がソファに腰を下ろしたのに合わせて話を始めた。

「山本さんから、賃金が払われないと労働基準監督署に相談がありました。事情をお聞かせいただけますか」

「そんなの当たり前だろう! 働いて返す約束で、あいつには金を貸しているんだ! それが急に来なくなって、何度電話しても連絡がつかないと思ったら、労基に駆け込んだだと?」

(会社から借金……? そんな話はなかったはずだけど……)

 手元の申告処理台帳をすばやく見返してみたが、やはり、そのような記述はない。

「給料を払え? ふざけるのもいい加減にしろ! 50万円も貸して、まだ1円も返ってきてないんだぞ! 山本の月給なんかで足りるわけないだろ!」

 阿久徳社長の口調はどんどんヒートアップし、興奮で顔が赤い。

「借金、ですか」

「ああ、そうだ。50万円だ。何なら借用書を見せてもいい」

「お願いします。それから、山本さんの労働時間の記録と、賃金台帳も」

 阿久徳社長が社長室から内線電話をかけて指示すると、先ほどの眼鏡の男性が書類をもって社長室に入ってきた。

 加平は借用書を手に取って一瞥すると、すぐに時野の前に置いた。見てみろ、ということらしい。

「借用書」と書かれた書面には、申告者が阿久徳興業から「50万円」を借り受けるという内容が記されていた。

 借用書に書かれた署名「山本翔太」と、昨日の相談票に書かれた申告者の自筆の氏名とを見比べてみる。

(確かに、字が似てる。同じ人物が書いたと考えてよさそう。ということは、あの金髪男、会社に借金をしているのに、それを労働基準監督署には黙っていたんだ)

 加平の方は、申告者のタイムカードや賃金台帳を確認しているようだ。

「賃金の締め日と支払日を教えてください」

「毎月末締め、翌月10日払いだ」

「支払方法は?」

「振込」

 テーブルの上のタイムカードと賃金台帳を、時野も手に取った。
 賃金台帳に記載された入社日は、「1月23日」とあるので、2月末まで働いて辞めたとなると、1か月ちょっとしか勤めていないことになる。

 タイムカードの打刻がほとんど8時ー17時であるところをみると、それが定時のようだ。諸手当を含めて月給はおおよそ30万ーー。

(仕事内容はわかんないけど、これだけ見たらまあまあホワイトな気がするけど)

「未払いになっているのは、2月1日から2月末日までの1か月分の賃金。支払日は3月10日。金額は305,000円で、間違いありませんか」

「ああ。そうだよ」

 2人が書類を見ている間に、阿久徳社長はペットボトルのお茶を持ってこさせてのどを潤している。あれだけ怒鳴ったのだ、のどが渇いて当然だ。

 借用書という証拠書類を示して、借金の事実を労働基準監督官に確認させたことで、阿久徳社長は少し落ち着いたように見える。

(借金は50万。会社から申告者に連絡がつかないんじゃ、確かに、給料を充当するしか回収の見込みはなさそう。それでも20万も未返済になっちゃうけど……)

 加平を見ると、自分のブリーフケースから書類を取り出し、ボールペンでさらさらと何かを書き上げた。背広の胸ポケットから印鑑を取り出して押印すると、阿久徳社長の前に置く。

「是正勧告書です」

「!」

(えっ!)

 阿久徳社長と時野は、加平がテーブルの上に置いた書類を凝視した。

「労働基準監督官 加平蒼佑」の名前で「是正勧告書」が作成されている。

「労働基準法第24条及び最低賃金法第4条の違反です。是正期日は2週間後。それまでに、山本翔太さんに305,000円を全額支払ってください」

 阿久徳社長は、再び顔を赤くして、わなわなと身体を震わせている。

「内容が理解できたら、こちらに受け取りの署名を」

 加平が是正勧告書の下部にある「受領者職氏名」欄をトンと指さす。

 バン、と大きな音がした。阿久徳社長がテーブルを叩いたのだ。

 時野は体をびくっとさせたが、加平は微動だにせず阿久徳社長と視線を合わせている。

「借用書が見えないのか! 山本には50万貸してると言っただろう!」

 加平は黙ったままだ。手を組んだ腕を膝にのせた姿勢でソファに腰掛け、より黒さが深まったように見える黒真珠はしっかりと阿久徳社長の姿をとらえている。

「山本に払ってない給料30万円でも到底足りない! そんなの小学生でもわかるだろう! それともなにか? 労働基準監督署は泥棒に追い銭をしろとでも言うのか!」

 阿久徳社長と加平の視線が激突したまま、社長室はシーンと静まり返った。

 自分の心臓のバクバクという音が2人に聞こえるのではないかと、時野は自分の胸のあたりを両手で押さえる。

「賃金未払と借金は、別問題です」

「なに?」

「支払期日に賃金を支払わなければ法違反。労働者が会社から借金していても、関係ありません」

「働いて返すという条件で、金を貸したんだぞ!」

「労働することを条件とする貸金と、賃金を相殺することは労働基準法第十七条で禁じています。労働を前提とせずただ金を貸すことまでは妨げませんが、あくまで賃金の支払いとは別物。貸した金が返済されようがされまいが、賃金の支払い義務は免れません」

「まじめに働いて返すっていうから雇ってやったんだ! 山本はその約束を反故ほごにしてトンズラしてるんだぞ! 労基はそんな山本の肩を持つっていうのか! 俺は山本が金を返すまで絶対に払わないからな!」

「それなら、送検になるでしょうね」

「なんだと?」

 阿久徳社長の眉が、ぴくりと動く。

「賃金が支払われなければ、労働者は処罰を求めるでしょう。つまり、告訴です。告訴となれば、労働基準監督署は社長であるあなたと法人を送検します」

(送検――?)

「もちろん、申告者である山本さんのお気持ち次第ですが、山本さんは賃金が支払われないまま引き下がるような人でしょうか」

 阿久徳社長は、歯を食いしばるようにして加平を睨みつけている。

「労働基準法の構成上、違反は明白。送検されれば、罰金刑は確実でしょう。ああ、送検された事実は記者発表もしますから新聞にも載りますが、お仕事の方は大丈夫ですか」

「き、貴様……!」

 阿久徳社長は立ち上がり、加平にとびかからんばかりだ。加平は加平で、阿久徳社長を凍てつくような目で睨み上げている。

(やっぱり、このままつかみ合って乱闘? うわーん!)

 そのまま何分経っただろう。いや、実際には数秒だったのかもしれない。立ち上がっていた阿久徳社長が、急にどさっとソファーに座り込んだ。

「山本は……同業者のところで勤めてたんだ。そこの社長に借金があって、キツい仕事させられてるって泣きついてきた」

 阿久徳社長はうつむき、ぽつりぽつりと話し始めた。

「うちとしても人手が足りなかったから、返済に時間がかかっても長く勤めてもらいたかったんだ。それなのに、上司のLINEに『辞めます』の一言で、急に来なくなって……。心配していたのに労基に駆け込んだなんてよ……」

(この話が本当だとすると、申告者が言う「社長に何度も払ってくれるよう請求した」も嘘だったのか?)

 激高していた姿が見る影もない。がっくりとうなだれている阿久徳社長が気の毒で、時野は加平の方ちらりと見たが、加平はと言えばクールな表情を保ったままだ。

「結局、山本の借金を肩代わりして、泣き寝入りか……」

「そのことですが。貸した金の取り立てを諦めろとは言っていません」

「え……?」

(え……?)

 阿久徳社長だけじゃなく、時野も驚いて加平を見る。

 加平は少しだけにっと笑っているように見えた。

「是正勧告書で文書指導した後は、法違反状態が是正されたか確認。今回で言ったら、賃金が払われたことの確認な」

「はい」

 時野は、説明を聴きながらメモを取る。
 申告処理の流れを、加平が説明してくれているのだ。

 4月の役所にしては珍しく、今日の角宇乃労働基準監督署は平穏だった。来客も電話も少なく、相談員たちも日頃の相談業務の取りまとめなど、書類仕事がはかどっているようだ。

「事業場からは、振込明細とか賃金台帳とか、法違反の是正が確認できる書類を提出させる」

 加平は事務机の上にあるA4の紙を、トントンと指先で示した。それは振込明細の写しで、阿久徳社長からファックスで受け取ったものだ。

 時野が加平と阿久徳興業に行ってから3日後、未払賃金305,000円は全額申告者に振り込まれた。

「それから申告者にも、賃金を受領したか確認することになるが――」

 阿久徳興業から戻ってきてすぐ、加平は申告者の山本の携帯電話に連絡した。

 賃金を支払うよう文書指導したことを伝えると共に、支払いがあったかどうかを加平に知らせるよう依頼したのだが――。

「あの申告者、まだ連絡つかないのか?」

 いつの間にか、紙地一主任が時野と加平のそばに立っている。
 阿久徳興業の申告事案の話をしているのが聞こえて、気になったようだ。

「はい、連絡ありません。こちらからも、賃金の支払が確認できてから2週間、毎日かけてますが、電話に出ません」

 時野たちが阿久徳興業に行った日から、半月程度が経過していた。

 はあーと大きくため息をつきながら、紙地一主任は腕組みをした。

「受け取りましたって一言言ってくれれば、すぐ完結できるのになー」

(加平さんはすぐに動いたのに、申告者は――)

「窓口にきた時は、『早く指導しろ』ってあんなに大声で騒ぎ立ててたのに、支払われたら電話にも出ないなんて、なんだか……」

 ここ数日思っていたことを、時野は思わず口にしていた。

 紙地一主任が、時野の顔を覗き込む。

「申告者のこと、不誠実って思ってる?」

「……はい」

(まずかったかな)

 時野が窺うように見ると、紙地一主任はふっと口許を緩めた。

「うん、そうだよな。それが普通の反応だよ。俺や加平だと、もう慣れちゃってるけどなー。喉元過ぎれば、じゃないけど、お金を受け取ったら本人の中では終わったことになっちゃうのか、まあよくあるんだ、申告者に連絡がつかなくなること。人には色々事情があるもんだしね」

「あの申告者に事情なんてありません」

 加平がぶっきらぼうに言い放つ。

「だからかーひーらー! まったくもー」

 紙地一主任が苦笑しながら加平の背中をポンポンとたたいた。

「まあ、この申告はもう完結にしよう。『申告者に複数回にわたって架電するも応答なし。事業場が提出した振込明細により法違反の是正が確認できたため、本件完結としたい』って感じで処理経過を締めくくって決裁回して」

 紙地一主任がそう指示を出し、加平が頷いたその時だった。

「オイコラ、加平ってやつ出てこいや!」

 穏やかだった事務室内に、突如怒声が響き渡った。

 受付に身を乗り出すようにして、男が騒いでいる。見覚えのある野球帽からはみ出ているのは――。

(金髪男!)

 阿久徳興業の申告者の山本翔太だ。

(賃金は支払われたはずだし、加平さんがあれだけ電話しても出なかったのに、今さらなんで……?)

「か、加平ですね、かしこまりました。お名前を伺っても……」

 受付に出ているのは渡辺相談員だった。対応する声が少し上ずっている。

「は? いいから早く加平を呼んでこい!」

 金髪男は受付の机をバンと叩く。穏やかだった事務室の空気は一転、緊迫感に包まれた。他部署の職員たちも何事かと立ち上がってこちらの様子を窺い、ざわついている。

「あ、あの人!」

 紙地一主任が金髪男に気がついて前に出ようとしたが、加平が紙地一主任の前にさっと腕を出し、進路を阻むと――。

「一主任、自分が行きます」

「だけど、加平――」

 紙地一主任の言葉をそれ以上聞かず、加平はずんずんと大股で受付に向かって進む。

 時野も思わず加平を追いかける。

「加平は自分ですが」

 加平が金髪男の前に立つ。

「!」

 金髪男は加平の顔を見て、あっ、という表情を浮かべたかと思うと、みるみる目をつり上げていく。

「お前が加平か、どーりでくそったれた状況になるはずだぜ」

 金髪男は手に持っていた封筒から紙の束を取り出すと、バンと受付の机の上に叩きつけた。

「オイ、これはどういうことだよ!」

 時野は加平の斜め後ろから、金髪男が叩きつけた紙を覗き込んだ。

(請求書?)

 請求書の宛名は「山本翔太」、請求者は「阿久徳興業株式会社」となっており、阿久徳社長の氏名と押印もある。

「借金を返さないなら、訴訟を起こして財産を差し押さえるって、これなんだよ!」

(差し押さえ? もしかして、あの時の話の通りに社長が――)

 時野が斜め後ろから加平を見上げると、加平は黙ったまま凍てつくような視線を金髪男に向けている。

「お前の入れ知恵だってことはバレてんだからな! 社長はなぁ、あんたからアドバイスされたって言ってんだ! 加平てめぇふざけてんじゃねーぞ!」

 時野と加平が阿久徳興業を訪ねたあの日――是正勧告書を阿久徳社長に交付した後、金髪男の借金については民事で争うよう加平が提案したのだ。

『貸した金と賃金は相殺できませんが、民事で争う分には問題ありません。山本に請求書を送りつけてください。払わなければ、差し押さえで強制的に回収するんです。60万円以下だから、少額訴訟が使えます。審理は1日で終わるし、費用も1万円足らずで済む』

 時野は、加平の話を聞いている時の、阿久徳社長の顔を思い出していた。

(阿久徳社長、すごく驚いていたなー。まさか、労働者の味方の労働基準監督官が、そんな提案をするなんて……)

『あんなやつに泣き寝入りする必要はありません。売られた喧嘩です。徹底的にやり返しましょう。貸した金を返してもらう権利のある阿久徳さん、あなたにしかできないことです』

 そう言いきった加平の顔を、阿久徳社長は真剣な表情で見つめていた。

(金髪男に財産がなければ差し押さえるものもないけど、正式な請求書や訴状が送りつけられてきたら、金髪男に対して相当な圧をかけることができるだろう)

「労基署は労働者の味方だろうがよ! 労働者が不利になるような情報流して社長の味方するなんて、てめぇどういうアタマしてんだ!」

 角宇乃労働基準監督署内にいるほぼ全員の視線が、金髪男と加平に注がれていた。
 誰もが固唾を飲んで、この後の展開がどうなるのか、意識を集中させている。

「オイ、なんとか言えよコラ、この税金泥棒が!」

 金髪男の右手が、加平の胸ぐらをつかもうと伸びてきたが――。

「!」

 加平が金髪男の右腕をつかんだ。金髪男は一瞬驚いたが、すぐに右腕を自分に引き寄せようとするも、加平はつかんだ手を離そうとしない。

「労働基準監督官は、労働者の味方なんかじゃない」

(えっ?)

 ここまで、まくし立てる金髪男に冷たい視線を向けているだけだった加平が急に口を開いたので、誰もが驚く。もちろん時野も驚くと同時に、加平の言葉の真意を読み取れないでいる。

「ましてや、社長や事業場の味方でもない」

「なんだと?」

「労働基準監督官は、法の前に中立だ。労働者だろうと社長だろうと、法を犯すやつは許しておかない」

 加平は金髪男をつかむ手にぐっと力をいれる。

「!」

 金髪男は痛みと動揺で顔を歪ませた。

「阿久徳興業は法に則って支払義務を果たしたんだ。今度はあんたがきっちり義務を履行する番だろ! 義務を果たさないくせに、権利を振りかざしてんじゃねぇ!」

 加平が押し返すように勢いをつけて金髪男の腕を離したので、金髪男はバランスを崩しながら後ろに数歩下がった。

「阿久徳さんは本気だ。さっさと金策にいくんだな!」

 金髪男は、顔面を強ばらせながら、よろよろと事務室の出口へ向かう。

 金髪男の姿が庁舎から出ていったのを見届け、加平が振り向いたのを合図に、みんながわっと喋りだし、称賛だったりねぎらいだったり、近くから遠くから口々に加平に声がかけられた。

 加平はぶっきらぼうに周りに会釈しながら一方面の島に戻ってくると、一主任の前に立つ。

「今度こそカタをつけました。阿久徳興業の申告は完結です」

 加平の言葉に、紙地一主任は大きく息を吐き出した。

「かーひーらー。まったく、ハラハラさせんなよおー。心臓壊れるかと思った。絶対寿命縮んだよー」

 紙地一主任が加平の肩に手を置きながら脱力している。

「ねぇ、俺さっきより禿げてない? いつも部下が心配かけるからさあー。 やっぱり禿げたよねぇ? ねぇ? 時野くんてば」

 紙地一主任が時野におもしろく言ってくるので、時野はつい笑いだしてしまう。

「すみませんって、一主任……」

 加平は居心地悪そうな表情で、ぼそぼそと謝っている。見守ってくれた一主任には頭が上がらないようだ。

(なんか、いいな。僕もがんばって、早くここの一員になるぞ)

 ほっこりした気持ちやらやる気やら、色々な温かい気持ちが湧いてくるのを感じ、時野は決意を新たにしたのだった。

ー次話に続くー


次話以降のリンク

第2話「所在不明」
第3話「有給休暇」
全話一覧をみる(マガジン)

公開次第、続きのリンクを貼り付けます。
毎週月曜日に1話ずつ公開予定!(全8話)
フォローしてお待ちいただけるとうれしいです♪

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます