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永遠回帰と長い日

 コロナの後遺症がなかなか消えず、貴重な連休は泡と化した。全く動けないわけでもないが、妙に倦怠感が続き、気道が狭くなっているような息苦しさを感じて、気持ちはずっと病臥状態に留まっている。職場ではコロナその他の感染症が猛威を振るい、同じフロアの八割くらいの職員がコロナに感染し、それ以外の職員も喉や気道に違和感を覚えて体調を崩すという、学級閉鎖状態になっていた。私は4月の半ばに罹患し、それ以降ペースが戻らず、通勤で行って帰ってくることは辛うじてこなしているが、それ以外は最低限の買い物を除いてほぼ外出していない。なにしろ10分以上歩くとバテるのである。普段鍛えていないぶん、体力の絶対量が少ないこともあるだろう。

 それとは別に、コロナからこの方、やたらと既視感デジャブを感じるようになった。現在自分の直面している状況が、以前経験したものと全く同じ行動を繰り返しているようで、まるで人生の二回目をなぞっているような感触なのである。資料を見れば、見た事があると思い、以前に聴いた話を再度聴いているような気がする。これは現状がつまらないために、無意識にそんな空想に耽っているのだろうか。それとももしかしたら、自分はすでにあのコロナによって絶命しており、凄まじい速さで時空を超え、記憶を残したまま二週目に入っているのではないかとすら思えてくる。しかしどうせ二週目をするなら、もっと別の道筋を通った人生でも良かったのかもしれないと思う。

 今の記憶を残したまま二回目の人生を送るとすれば、どんなふうに過ごすのだろうか。怠惰な自分の性格上、何度繰り返しても現在と同じ人生になるような気もしている。一人ぼっちで誰とも会話をせずに暮らしていると、自分はどこで死ぬのだろうか、誰が自分を看取るのだろうか、このまま死んだ場合の後始末はどこの誰に迷惑をかけるのだろうか、というとりとめのない考えがきれぎれに浮かんでは消え、消えては浮かび上がる。これはよくないなと思って読書をはじめてみるものの、文字の群れが頭をするするとすり抜けていくだけで、ゴマ粒ほども頭には残らぬ。少し読めてわかった気になっても、その後全然言語化して説明できない。おまけに尻と腰が疲れて、目も痛くなってくる。もはや老人である。

 仕方なく、横になってスマホで映画など観ようかと企む。なんとなく目についた『日本のいちばん長い日』の2015年のリメイク版を観る。よりにもよって重い作品をチョイスしてしまい、見終わってから身体がさらに重くなった。この映画はもちろん終戦前後の政府枢要の混乱を極めてシリアスに描いたものであり、昭和天皇・重臣たちや本土決戦に拘る青年将校など複合的な視点をもちつつ、かなりの程度陸軍大将阿南惟幾の目線で描かれていたが、彼を演じた役所広司氏は、すぐれた軍人の覚悟を振りまく人物像ではあるものの、歴史上の阿南のイメージからややかけ離れている気がした。阿南というのはもっと不器用な人だったのではないか。また、全体の印象として個人的には1967年岡本喜八監督版が、より叛乱未遂の将校たちの狂気を感じさせてインパクトがあった。
 個人的に阿南のイメージに近いと思ったのはアレクサンドル・ソクーロフ監督の映画『太陽』で演じていた六平直政氏だ。とはいえほんの端役扱いだったので見た目の印象に過ぎない。『太陽』といえばイッセー尾形の昭和天皇が安定の憑依ぶりで印象に強く、配役はかなり頷けたが、観念的な作品であるゆえ、史実的な正確性には乏しかった。

 映画の話はどうでもよかった。とにかく、最低限頭が働くだけの体力が欲しい。以前から体力がなかったが、後遺症の影響か体力の減退が激しいのか、あるいはそれとは別の老化現象が入り込んでいるためか、肉体の疲労感に加えて頭脳の疲労が激しく、少し頭をひねるとそれがたちどころに肉体に波及して、呼吸は困難、眠気が襲い、身体の節々は痛むといったありさまである。脳筋という言葉の正しい意味は脳みその筋力ということではないか。脳筋大いに結構である。

 体力が弱っているなかで、じわじわと湿度の高い夏に近づいてきたので憂鬱である。暑さが盛ると、日本のいちばん長い日にも近づいてくるわけで、この気力を何回も繰り返すような気分になったとしても、心持を維持していくのかという方策を考えねばならぬ。





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