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情熱に関する断章

 自分はどこか冷めていて、突き抜けた情熱に乏しい。それが人生に制約をもたらしている気がする。大きくイメージを膨らますことはできるのに、その実現においては小さく小さく纏まろうとする。なにかタガが外れたような吹っ切れた衝動がないと、ひとつの仕事をやり切ることなどできないのに。

 自分はかなりの格好つけである。時々自分のことが鼻持ちならずに我慢しかねることもあるほどに。我ながら、いったい何をこんなに格好つけているのかと疑問で仕方ないのだが、どうやら人は生きるのに大義がいるという信仰にとらわれており、それが形式的な殻を作っているようである。実際はのんべんだらりと生きていくこともできれば、あくせくと生きていくこともできるはずで、格好をつけることなどないのである。

 格好つければつけるほど、真実の自分とのギャップが大きくなるのだから、そんなことやめて肩の力を抜いて生きていけばよいのに、それがなかなかできない。そんなギャップを紛らわせるために、文章を書いたりしている。

 文章を書けば書くほど、自分の頭の中の整理の悪さと記憶の不確かさに失望を感じる。なんと自分はアホなのだろうかと頭を抱える。それでもごくたまに、すっきり感情と理性の混濁を上手に整理できることがあって、そのときの快感が忘れられないので、苦しんで背を曲げて、視力を失いながら書くのである。このところ、目がかすんで仕方ない。

  自分を自分を、と自分のことばかり掘り下げていて、いったいどこに行き着くのだろうかと訝しい。単なるナルシズムの発露じゃないかと思えてならない。そんな漠然たる思考からつまみ出したなにかを言葉や文字に表すことは、肉体的にも精神的にも辛い経験である。そして、自分の書いたものを人に晒すというのは、勇気のいる行動である。

 人生に必要な資質をひとつだけ選ぶとしたら、それは勇気である。才能より努力より技術より、勇気があれば、たいていのことは踏み出せるのである。最初に勇気を出せば、あとはなんとかなることが多い。特に求められるのは、恥ずかしいとか、恥をかくとかいうことに対抗する勇気である。

 勇気を支えるのは、情熱である。情熱は冷めている。それではとても勇気は出ない。情熱がもとからなかったのか、いつからか減退してしまったのか。

 そこまで書いてみて、実は自分には情熱があるのではないかと思い始める。情熱はあるのだが、何かに抑圧されている。情熱があっても、行動に結びつかないのはなぜか。自分は多くの問題を抱えている。わかったような気でいるが、わからないことばかりである。頭が悪いことは、いくらでも考える問題があるということだ。その問題を解決に導くために、人生の矛盾に立ち向かうために、考え続けることしかない。無限の内省。結局はそこに情熱を燃やしているのかもしれない。




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