見出し画像

文字のリズムとニヒリズム

 漢字は書における表現の、たんなる媒材ではない。おそらく漢字の構造そのもののうちに、そのような表現を要求する造型性への志向ともいうべきものが内在しており、それが芸術としての美的な、また知的な表現への衝動を、よび起こしてやまないのであろう。形や色彩への表現の衝動が、絵画の歴史をささえているように、交錯する線のリズムによる生命表現への衝動が、書の歴史をささえている。そして形や色彩の奥に実在の神秘が洞察されているように、書にもまたそれ自身の世界観がある。しかもそれは、最も抽象的な線によって構成された、極めて知的な世界である。

白川静『文字逍遥』

 書くことは運動である、というと妙な感覚を抱かれるかもしれない。確かに手を動かすという意味では運動と言えなくもないが、書くとは静座して行うもので、むしろ動きを抑制するイメージがある。
 しかし、文字を記すという行為は本来的に運動の要素を含むのではないか。古代メソポタミアの楔形文字は粘土板に一文字一文字削るように刻まれたものであるし、原初の漢字とされる中国の甲骨文字は、小刀で彫り付けたものである。これら古代の文字を記すことは、力を込めて刻み込む運動であった。英語のwriteは「彫る」という意味のゲルマン系言語Writanaが語源であるという。

 「書」という文字は、もともと筆を使って記すことを意味する。筆を動かすこともまた運動であって、一定のリズムと躍動が必要である。ダイナミックな大筆を使って全身で記す書道のパフォーマンスは、日常の書くという範囲を超えてそれを表現したものである。文字が歪むことにより、些細な身体のブレを感じ取ることもできる。最近読んだ小説の中にあった一節には、文字と身体との関係が描かれ、そしてリズムの必要性が示されていた。

筆を意のままに操るには、呼吸を整えることが肝要である。筆の動きに応じて吸っては吐き、呼吸に乗せて筆を運ばなければ文字など書けない。内観もまた重要で、自らの体の仕組みを知ることは、筆の動きにそのままつながる。筆は自分の体の延長であり、体は筆の延長である
(中略)
歌うように書き、書くように歌う。意味以前にひたすらに唱え続け、無心に書き続けることが第一である。その意味は研鑽によって開かれるようなものではなくて、人には明かされることのないものであるかもしれないのだが、ただひたすらに繰り返す。なによりそれはリズムであり、問いかけを続けることが、時間を操る技術となる。
(※太字は引用者)

円城塔『文字渦』所収「天書」より

 筆跡という言葉は、死語になりつつある。普段の生活では、手書きで文字を書くことの方が少ない。デジタル化がスローガンとなり、文書は基本的にテキスト入力となり、Wordなどのワープロソフトで書かれ、公文書でさえ全てデジタル化される方針がとられている。書の巧拙は問題とならなくなり、おそらく書き方もそれほど入念には教えられないのだろう。そんなことより、現実的にはITリテラシーを教えるほうがはるかに重要なようである。字が汚いのは昔から若い人に限らないし、知識や知能の水準と字の美醜も無関係だろうが、それでもやはり、最近は記号のような形の読めない字を書く人が増えたように思えてしまう。これは、字の汚い人が増えたというより、字の巧拙を問題にする人の割合が減っているということかもしれない。かくいう自分も文字を書く機会が減って、たまに書いた慣れない文字が、美しさを損なっていることを自覚する。こうして、人は文字に無頓着になっているようである。ワープロで文字を記すようになって、変換ミスは頻繁にみられるものだが、読み手はいちいちそれを指摘したりはしない。見れば変換ミスだとわかるし、場合によっては変換ミスだと思われないわけである。変換ミスをミスと書いたところで、あるいは変換ミスなっていたところで誰も気に留めないかもしれない。

 いまここに見えて、この文章を形成している文字は、リズムに乗せて描かれたものではなく、ドットの集まりが形になっているだけであり、その集まりがいかなる形を持っているか選択しただけの記号である。「あ」という文字に見える形を選択して押下し、「フォント」という名前の決まったデザインを選ぶことはある程度できるにせよ、その文字の一画ごとの微妙な太さや、バランスの整え方(崩し方)といった、形相の個性を選ぶことはできないし、一画一筆を書き付ける運動にはならない。「あ」が「安」から変化したものであることも、「い」が「以」からきていることも、普段意識することはないし、それを知っていたとしても、書いて手を沿わせてみないと実感しづらい。

 「あ」と「い」が合わさって愛になる――愛する人とのメッセージのやり取りで「あなたは一体、私のことが好きなの、それとも嫌いなの?」などと疑問を突きつけられたらどうだろう。好きと答えても窮するかもしれないがその場をしのげる可能性はある。だがたとえ冗談でも、嫌いなどと答えてしまうと相当面倒くさいことになるだろう。
 嫌いは面倒くさい。漢字の「好」の画数よりも「嫌」の画数がはるかに多いのは、嫌という字を面倒がって書かせないための古来からの配慮だったかもしれない。しかし一画ずつ線を引かない今日ではその心配りも意味がなくなってくる。例えばローマ字入力でsukiとkiraiを比較すればその差は少ない。4回キーを叩くことと、5回叩くことの違いでしかない。好きと嫌いの距離は近づく。音読みでkouとkenなら同じ文字数で好きと嫌いは似た者同士だ。
 手書きで「愛」という漢字を書けば、「嫌」と同じ13画である。すなわち愛することは好きよりはるかに手間がかかり、また嫌うことと同じくらい面倒なのである。しかしローマ字で記せばaiであり好きよりも嫌いよりも軽くなる。愛の敷居は低くなって、気軽に愛することができるようだ。これらは単なる言葉遊びに過ぎないが、重要な暗示があるように思えなくもない。

 書くことは運動であるという命題を別の観点から考えてみたい。競技アスリートのインタビュー記事などで、大舞台で良いパフォーマンスを出すためには平常心が重要だと説かれているのをよく見る。淡々と、いつも通りに自分のパフォーマンスを発揮すること。そのためのメンタルコントロールが重要なのだと。
 言葉にも似たようなところがある。皆の前であいさつをする際に、緊張のあまり頭が真っ白になって言葉が出てこない。準備を入念にして自信をつけておくことで、あるいは数をこなして場慣れしておくことで、緊張しつつも本番で失敗するリスクを減らせる。また、リラックスしているときに、口をついて言葉が出て来るということがある。それをそのまま書き写せば、思ったままのことが書けているということになるかもしれない。頭の中から湧き出すように筆が進む、筆が滑るということがある。虚心坦懐。良いものを書いてやろうと気負ってうろうろ考えてしまうと、いいものは書けない。メンタルが出力に大きな影響を及ぼすという点において、書くことは運動の側面をもつ。

 人間が文字を書かずに打ち込むようになってから、文字はその本来の生命力を失ったともいえる。恐ろしいことに、生命力を失ってもなお文字は影響力をもつ。人の心を扇動して容易に炎上させる。文字が活字になって、それからデジタルデータになって、単なる選択になったとき、リズムが消えて個性がひとつ消える。この文章もまたポツポツとキーボードを打って入力されているものであるということが皮肉極まりなく、その行き着く果てはニヒリズムかもしれぬ。書くことはただの選択で、リズムは単純で、好きでも嫌いでも、なんでもなくなる。

 しかし、こんなニヒリズムには少しでも抵抗したい。

 人生が旅のようなものだというありふれた喩えを使うのなら、今我々が書いているものは旅のまにまに書いたものであり、旅の合間の書き散らしである。恥ずかしい経験も書き散らして、水に流してしまえばいい。書いて、捨てるのである。水に流した先がネットの海であれば、海の片隅でひっそりと保存されることだろう。を、

と書けば、なんとなく印象も変わるような気がするではないか。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?