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帝都ヲ暗黒化セヨ(五・一五事件異譚)

 その頃、つまり昭和七年頃の農村の窮乏は、極めてひどいものでした。数年前から生糸は売れなくなり、二束三文になりました。米は豊作にもかかわらず外地からも入ってきてどんどん余る状態に陥り、やはり値段が大幅に下がりました。どの百姓の家族も貧窮に苦しみぬいて、娘たちは売りに出されました。
 私はその一年ほど前から橘孝三郎先生の愛郷塾で学ばせていただいていました。常日頃から清廉を私たち塾生に説いておられた橘先生は、このようにおっしゃいました。農村の危機に較べて、都会の贅沢ぶりはけしからぬ。安穏として暮らしている都会というものを、脅かしてやらねばならん。連中の文明的な生活が永続的なものでないということを知らしめてやらねばならん。生まれつき身体が弱く、本懐である農業に従事できなかった私は忸怩たる思いでした。どうしたら塾の理念を実現して、農業本位の国家実現に貢献できるだろうかと日々煩悶を繰り返しました。
 また、先生はこうもおっしゃいました。近いうちに軍の将校が蹶起するはずである。その混乱に乗じて都会の連中に思い知らせてやるために、変電所を襲撃し、爆破によって機能を喪失せしめる、そうして帝都は暗黒化するのである。そしてそれこそは農民が都市への反逆の狼煙としてなすべきことなのだ、と。帝都制圧の実行部隊は軍の若い者に任せておけばよろしい。農民は農民として、文明に抗う姿勢を見せることが何より大切なのだと、何度もおっしゃいました。

 そして、昭和七年五月十五日のその日に、私達はそれを実行したのです。
 私は橘先生を尊敬していましたが、軍人たちにはどことなく反感を持っていましたし、クーデターなどと息巻いて政治の臭みにまみれるのは嫌でしたし、人殺しに手を貸すのはもっと嫌でした。ですから私たちの行動はあくまで理念によるものだったと今でも確信しています。これは罪を逃れるために言うのではありません。もしかしたら当時の昂奮状態に対する贖罪意識も相まって、後付けでそう思いこんでいるだけかもしれませんが。
 先生はいつも、国の中心は農村であり農民である、したがって農民が一生懸命に育て上げた米や作物が都会の金持ちに搾取される構造を、正すべき社会の腐敗だと考えておられました。また、今回の事件が軍人だけで決行された場合に、軍部独裁が事件の目的だと誤解されることを恐れて、われわれ農民にも参加を呼び掛けられたのです。私としても、都市でのうのうと余裕暮らしに耽っている貴族的な人間たちに反感があったのは事実です。しかし、帝都全体を暗闇にしてしまえば、都市の機能は失われ、無血でクーデターが起こせるかもしれないと、よからぬ考えも浮かびました。人間は文明に胡坐をかいている、いい気になって物質に溺れて酔っ払っている。いつも享楽の光に照らされて、正気を失っている。だからあの莫迦みたいに夜中まで楽しく遊んでいる連中を、ほんのちょいと懲らしめてやろうと思って、私は進んで変電所の襲撃に参加したのです。人を傷つけたいとは思っていませんでした。あくまで施設を無効化することだけが目的でした。

 実行にあたっては事前の下調べとして、橘先生とともに、水戸の三の丸東部電力会社を見学しました。そこで私たちは変電装置などの構造を知ることができました。警備状況も充分にみることができました。その結果、各変電所の襲撃は二人ずつで問題ないだろうという判断に至ったのです。手榴弾を投擲して爆破する方法を選びました。

 決行の時間がやってきて、私は爆弾を投げようとしました。いざ投げる段階になると、ぶるぶる震えてきました。半分は、都市というこの不気味な存在を動かし支えている巨大な力(それは象徴的に「近代」といわれているものかもしれません)についているという怯えで、あとの半分は、その巨大な力を組み伏せてやろうという武者震いだったように思われます。怖くなったと思ったら、ふと馬鹿々々しい気持ちになって肩の力が抜けて、私は悪戯小僧が大人をからかって小石でこつんと悪戯してやるような心地になり、ついに手榴弾を投げました。投げてから、少しだけ茫然として、だんだんに気分が高揚してきて、畜生、畜生と叫びました。ところが苦労して手に入れた爆弾は破裂せず、ことごとくうまくいきませんでした。あっけなく爆弾が跳ね返されて茫然としていると、突如ごぉんと爆音が聞こえました。そのあと、ピシッピシッと何かがはじけ飛んでいるような気配がありました。病体の私は、その音を夢心地で聞きながら、肉体を引き裂いて魂が引き抜かれるような嫌悪感と心地よさを同時に感じたのです。そのうち巡査のホイッスルと荒い靴音が聞こえてきました。私は我に返って、逃げ出しました。息を弾ませながら、これで都市は黒い黒い闇に包まれる、浮かれて思いあがった人間たちにも農村と同じ時間が訪れ、あの穏やかで厳しい農村の生活が日本中に行きわたるのだ、俺は農村の理想のために「近代」という魔物に一矢報いてやったんだという達成感で満たされていました。



 五・一五事件(1932年)は血盟団事件(1930年)や二・二六事件(1936年)といった、要人の暗殺を伴う前後の昭和クーデター史に残る大事件と踵を接していながら、農村の窮乏に苦悩する農村青年を直接巻き込んでいる点が極めて特徴的である。それら農村青年の主体となったのは、橘孝三郎の愛郷塾であった。愛郷塾生たちは事変において変電所襲撃を担当した。変電所の襲撃という奇妙なアイデアを橘が考えついたのは、海軍中尉古賀清志との会談を終えた汽車の中でのことだった。事件の調書によれば、農村を疲弊せしめている都会、不夜城を誇る帝都を、農民が二三時間暗黒に陥れることにより都会の人心を震撼させることが目的で、そのための最も効果的で損害の少ない方法だと思われたという。橘は、これを塾生に説いて承諾させたのだった。

 塾生の一人である宮崎出身の温水秀則は、昭和六年郷里宮崎県都城中を卒業、同十月、血盟団の一人である池袋正釟郎の世話で、当時代々木上原に住んでいた権藤成卿の自治学会の私塾に入った。橋孝三郎が自治学会を訪問するに接し、同年十二月、愛郷塾に入塾した。しかし身体が弱く、農業に適さなかったため、本間憲一郎の紫山塾に書生として住み込んだ。
 昭和7年5月15日午後7時30分頃、温水は淀橋変電所に向かい、爆弾を投擲した。爆弾は冷却塔に当たり、轟音とともに上部が縦2尺(約60.6cm)・横3尺(約90.9cm)の部分が跳ね飛ばされて落下し、その破片は5町(約545m)以上離れた民家の玄関のガラス戸を破壊するほどに吹き飛んだとされる。温水は爆発物取締規則違反で起訴されたが、裁判前に腹膜炎にて死去。

 上記はこうした史実を脚色・変更し、架空の愛郷塾生の手記としてフィクション化してみたものである。





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