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『花をもらう日』第四章 花をもらう日④

  受付には蝋梅のアレンジメントが置かれている。が、今年に入って一度も上田くんに会っていない。
「この間、午前のシフトに入ってたけど、たぶんもうそんなに来ないと思いますよ」と石川くんが言う。「会社の研修が始まってるらしくて」
 会社、とつぶやくと、そうそう、上田くんすごいんだよ、と内藤さん。「日比谷花壇しか受けなかったんだって」
「えっ、日比谷花壇!?」思わず声が出てしまう。青木くんが期待通りに絡んでくれる。「花壇の会社って、彼、植木屋さんになるんすか」「お前、花買ったことないだろ」「たぶんないっす。石川さん買うんすか」「大人はたまには買うんだよ」
  見事だ。就職難の時代じゃなかったとしても、1社しか受けないなんてとてもできることじゃない。かっこいいな、勝負師だったんだなあと、仰ぎ見るような気持ちで彼のシャツのチェック柄を思い浮かべる。
 人に堂々と披露できる技術があるってすばらしい。うらやましい。わたしが手にしたと思っていた自分なりのそれはもうすっかり消えてしまったから、余計に、はっきりそう思う。
 あきらめでも後悔でもなく、今の自分はその事実を認識している。一方で、年末に事務所で「できることはありませんか」と言ってしまった自分もまだ体内に残っている。せめぎ合っている。
 社員に、という内藤さんの言葉はだから、正直に言えば保険のようなものとして胸に保存されていた。保険だなんて何様だと思う。20代後半の、スキルのない人間にそんなことを言ってくれる会社はない。しかも人間関係良好なのだ。
 ───きっとまたできますよ。
 ───誰もやめろとは言ってないんでしょう?
 上田くんの、圧のない、さらりとした感触の声を再生する。
 おめでとう、すごいね、と会って言いたいと思った。

 ロングブーツを、27歳にして初めて買った。ブラウンのスウェードのだ。脚が細く見えるのが嬉しくて、1週間に4回くらい履いた。合わせてロングスカートも買った。自分がいいものに思えて、気分がいい。この冬は、寒いけれど雪が少なくて、服や靴選びにあまり困らない。  
 その日も、ロングブーツを履いた。ファスナーを上げて立ち上がったとき、電話が鳴った。慌てて脱いで受話器を取った。事務所の川崎です、と相手は名乗った。初めて話す人だった。
 通勤電車の中でその用件を、わたしは何度も反芻した。会社に着いても集中できない。大学生の面接がいくつもあり、残業確実の日だったが、忙しいのかどうかも分からない。どうにも落ち着かない。ふわふわしているのに興奮している。しなければならないのは、1週間後の2月10日の休みを申請すること。支社長に、今日中に、言うこと……。
 FM横浜がニュースアナウンサーのオーディションをするんですが、北村さんはどこかほかのところでお仕事されていますか、と川崎さんは言った。いいえ、と答えた。早朝シフトがあるレギュラーの仕事なので、もし合格した場合は横浜に住んでもらうことになりますとの言葉に、かまいません、と答えた。日時は2月10日、午後7時。
 ───おそらくほかの事務所からも受けに来ると思いますが、今回の採用は1人だそうです。スタジオは横浜のランドマークタワーの10階です。以前は山下公園近くの産業貿易センタービルに入っていたんですが、半年前に移ったんですよ。そうそう、今はFM横浜ではなくハマラジと言うので、念のため───。
 8か月前、3つのラジオ局に電話をした。あのとき、FM横浜……ハマラジには電話をかけなかった。バイリンガルDJの多いステーションで使ってもらえるとは思えなかったからだ。横浜の固有の文化やお洒落っぽさに気後れがしたのもあった。八王子とかY県とか、山に近い場所にばかり住んでいる自分には縁遠い局だという気がして、最初から頭になかった。
 そんなところで、1回でも喋れるなんて、夢みたいだ。
 野心のようなものも混じってはいる。でも、具体的なチャンスを提示されて初めて、自分に期待する気持ちが以前より確実に減っていることが分かった。嬉しさのほうが断然強かった。一度覗いてみたかった場所に足を踏み入れることを許されたような、そんな類の嬉しさだった。
 今度は裏地が出ない、新しいスカートを履いて行こう。
 雪が降らないといい。

#ラジオ #FM #アナウンサー #DJ #エッセイ #小説 #本 #独身 #女性の生き方

(作中の人名は仮名です)

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