見出し画像

『花をもらう日』第四章 花をもらう日⑤

 桜木町駅を降りて、目の前にどっしりとそびえている、反ったフォルムのタワーを見上げる。この、日本で一番高いビルの10階に、FM横浜、いや、ハマラジは入っているらしい。
 横浜は3年ぶりだった。Y県にいたとき、一度、局の仲間と車で来た。ベイブリッジを走り、プリンス専用の赤いチェアがあるというクラブ「グラムスラム」を眺めた。横浜って、なんていうかブランドだ。プライドがある土地という感じがする。元町とか、中華街とか。
 なんてことを考えて気を散らしながら、回転扉からタワー内に入る。エレベーターホールがいくつもあって迷ってしまう。いかにも人気の観光地っぽい。停止階数表示の文字を探して、なんとか10階に上がる。教えられた暗証番号を押して、スタジオのドアを開ける。
 
 広い。
 人がたくさんいる。
 まず思ったのはそのふたつだった。
 ぴかぴかしたフローリングの床、壁に、雑に貼られた外国人アーティストのポラロイド写真。ラフな笑顔の下にはサインが入っている。かつてわたしが働いていた局とは全然、すべてがと言ってもいいくらい、そこは違う世界だった。
 大柄な黒人男性が視聴ルームで身体を動かしながらCDを聴いている。レコード会社のプロモーターと思しき人たちが談笑している。製作者用のロッカーがずらりと並んでいる。つまりこれだけの人たちが、ここで日常的に番組を作っているということだ。
 ───やばい。ここは本当に放送局だ。
 笑いそうになる。膝ががくがくする。打ち合わせ用と思われる近くのテーブルに、取りあえず腰を下ろす。誰かが迎えに来てくれるのだろうか。それとも、あのときみたいに、一緒にオーディションを受ける人がもうどこかにいるのだろうか。
「北村さん……ですか?」
 男性の声がした。視線をあげると、眼鏡をかけた同い年くらいの、トレーナーとジーンズ姿の男性が立っていた。「あ、僕青柳と言います。よろしくお願いします」と笑いかけられ、は、はいこちらこそ、と慌てて頷いた。彼が持っているMaxellのオープンリールの青い箱が目に懐かしかった。
 これからこのテープに、わたしの声が入るのだ。
 
 案内されたスタジオには、大きな窓があった。みなとみらいの夜景が、海に向かって見える。大観覧車。半月のかたちをしたホテル。とろりと黒い夜の海。その海を行く船の灯り。
「……あの、きれいですね」
 青柳さんは目で笑った。もう見慣れているのだろう。でも、わたしには一度きりかもしれないのだ。「すみません、すこし見てていいですか」と言ってしまった。「いいですよ。僕準備してますから」
 年配の男性が入ってきた。「あ、うちの大野です。編成部長です」と青柳さんが紹介してくれた。どうも、と大野さんはわたしに原稿を差し出し、アナウンスブースに入るよう促した。
「一応試験なんで、申し訳ないんだけど原稿には何も書き込みをしないで読んでください」
 大野さんの指示に、はい、と緊張しながら答える。8カ月間現場から離れていて、ふりがなや、息継ぎの場所を書き込まずに4本の原稿をつっかえずに読むことができるとは思えなかった。ああ、やっぱり思い出づくりだったのだと思う。この夜景は思い出の彩になるわけだ。
「リラックスして、って言いたいところだけど、そうもいかないよね」
 いたずらっぽい口調で大野さんは言い、じゃ、よろしくと防音扉を閉めた。

 ヘッドホンを着けると、頭の中がしんとなった。
 たぶん、思い残すことなく、今夜の自分はこの原稿を読むだろう。カフを上げたとき、なぜかそう思った。
 出来がいいかどうかは分からないし、気に入ってもらえるかも分からない。でも、終わったときに後悔はきっとしていないということが、読み始めてすぐに分かった。
 初めての場所で、外界と分断され、完全にひとりになって、ただマイクに向かっている。
 そのことがたまらなく心地よかった。
 不思議な気分で、わたしはその数分を自分の声とともに過ごした。

#ラジオ #FM #アナウンサー #DJ #エッセイ #小説 #本 #独身 #女性の生き方

(作中の人名は仮名です)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?